2021/01/27

待避線(余談・雑談) ラジアルトラックという2軸台車

  大沼電鉄の古図面をめくっていて、私にとって長年謎に思いながら忘れかけていた大変興味深いモノを見つけました。大勢いる日本の鉄っちゃんの中でもその名前を知っている人は僅か、それに興味を持っているか詳細を知っている人はほんの一握りではないかと思われるほどマニアックなお話です。

 2軸路面電車が大量に製造された明治末期から昭和初期にかけて、それらの台車はアメリカのブリル社から輸入されたか、国産のコピー品が多く使用されました。一方イギリスのマウンテン&ギブソン(MG)社製のものが一部で使用されていました。ここで特筆すべきは、MG社製の多くはラジアルトラックと称して2軸でありながら軸距が長く、曲線通過時にボギー車のように車輪が進行方向に向かう機能を有していたということです。つまり車軸が曲線の中心方向を向くので”radial(放射状) truck(台車)”と言うのです。神戸市電の300型のうち301330がこの台車を履いていたので、軽快なブリル社製との違いをよく覚えています。ところが私が見た300型は、1930(昭和5)に旧型木造車を鋼製車体に置き換えた時に台車も改造されていて、すでにラジアルトラックではなかったのです。ただその痕跡としてごつい軸受周りが鋼板で塞いであるように見え、おそらく軸受が前後に動くように工夫されたなんらかの仕掛けが組み込まれていたであろうことは想像できました。当時の鉄道雑誌にもこの電車の台車がラジアルトラックであったことが記されてはいたものの、それがどのような機構であったのかはどこにも解説されておらず、謎に包まれていました。神戸市電が廃止されて半世紀、そのこともすっかり忘れていました。

愛知電鉄電2型
名古屋鉄道H.P.
 大沼電鉄が富山電鉄(現富山地方鉄道)から購入した中古電車を1941(昭和16)にデ3型として導入する際、鉄道省に提出した改造認可申請書の参考図として台車構造図が添付されているのを見つけました。この電車の元をただせば、1913(大正2)名古屋電車製作所(現日本車両)製の愛知電鉄(現名古屋鉄道)2型で、1923(大正12)に富山電鉄に譲渡されたとされています。大沼電鉄への譲渡前にブリル社製に交換されたとの説があり、認可申請書にも「参考図」と記されていることからデ3型が大沼電鉄で依然としてMG社製を装備していたかどうかは謎ですが、その詮索は本題から逸れるので別の機会に譲ります。

 台車構造図からは、軸受が動いて曲線部で舵取りをしながら走ることができる仕組みを読み取ることができました。その青写真に描かれているMG社製2軸台車の軸受部を拡大した図と、立体的にその動きを示したイラストを示します。軸受箱上部に2本の吊りリンクがピンで連結され、その下部は緩衝材のようなものを介して台車枠を支えています。つまり台車枠とその上の車体は軸受箱のピンからぶら下がったブランコに乗っているような構造です。

軸受の構造とその動き

軸受と台車枠の関係
 図の矢印が示すように吊りリンクの下部が進行方向に対して斜め(45°)に揺れるようにピンは装着されています。4ヶ所の軸受部についてこの動きを見ると、左の図のようになります。ただし、各車軸の長さは一定なのでそれぞれの軸受は好き勝手に動くのではなく、一方の軸受が斜め前方に移動した時、反対側は斜め後方に移動することになります。言うまでもなく停止中や直進中は吊りリンクは真下にぶら下がって本来の位置で安定しています。

曲線部での軸受の位置


 曲線通過時には車体と台車枠に遠心力が加わり、吊りリンク下端に乗った台車枠は軸受に対して曲線の外側に振れます。逆に各軸受は、台車枠との関係では相対的に右図の矢印方向に移動するため、前後の車軸は舵を切るように向きを変えます。

 理屈の上では固定軸台車に比べて曲線通過が円滑になり、利点が多くなるように思われますが、車輪の位置が変わることに応じたブレーキ装置の複雑化、吊りリンクやピンのメンテナンス、実際の走行性能などに問題があったのでないかと想像されます。そのため多くが台車枠と軸受に手を加えて上下方向のみに振動吸収の自由度を残し、固定軸受に改造されてしまったようです。1980年代に開発された2軸レールバスが装備した1軸台車の他、近年ではボギー台車に操舵機構を組み込んで曲線通過を円滑にする技術が実用化されていますが、マウンテン&ギブソンの先例がなんらかの形でこれらの参考にされたことは想像に難くありません。


2021/01/24

電車台枠と台車の製作

  台枠はウッドデッキの材料として余分に購入していたクリ材で、無蓋車と同じく「目」の字形に組立てることにしました。ただし妻板の下に見える端梁部分は曲面(1000)に加工する必要があり、電動丸鋸で粗削りした後カンナや木工用ヤスリ、サンドペーパーで仕上げます。この辺りが1/80模型と違うところで、骨が折れるというか、木ではなく気が削れるばかりの作業になります。縦と横の接合部には山形鋼(Lアングル)を当てがって正確に直角を出しました。無蓋車の製作で学習した成果です。

木製台枠
 台車は、モデルのデ1型が当時の2軸電車の典型であるブリル21Eを履いていたのでその形を模したものにしようと考えました。この台車は下の写真に示されている通り、車軸を受けるコの字型の枠を鉄の棒で繋ぎ、バネで車体台枠を支える構造になっています。実物は鍛造により一体成形されているようです。その構造のままスケールダウンするのは困難なので、角型鋼管を溶接してそれらしい形にアレンジします。軸受は車体から見て前後左右方向には動かず、上下方向にのみバネを介して自由度が与えられるようにしなければなりません。実物のブリル21Eではコの字型枠の内部を軸受けが上下に摺動するペデスタル構造になっていますが、この「なんちゃってブリル台車」では軸受けに無蓋車と同じピローブロックを使用し、台車枠に防振ゴムを介して半固定します。その代り車体台枠との間に入るバネの中心にガイドバーを設けて角型鋼管製台車枠ごと上下方向にのみ自由度が与えられる構造にします。疑似円筒案内式とでも名付けましょうか?バネ下重量が大きくなりますが、高速走行するわけでもないので実害はありません。
ブリル21E(函館市電上)となんちゃってブリル(下)

 車輪、車軸は無蓋車と同じ寸法にしますが、動力を組み込む関係でそれぞれにキー溝加工をし、チェーン駆動用のスプロケットを取り付けます。駆動方式が未定のため、両軸駆動になることを想定して2軸とも同じ加工をします。函館市内には造船所もあり金属加工工場がたくさんありますが、各種の加工(切削、板金、溶接、表面処理)に対応できて趣味のものづくりに付き合ってくれる町工場を探しました。その結果柴田工作所が理解を示して、車輪の素材手配を含めて加工に応じてくれることになりました。その後も大物小物の加工で世話になり、無理も聞いてもらって重宝しています。

台車の詳細と組立手順

台車組立経過の実態
 台車枠は角型鋼管60×30×t3を用いた溶接構造です。車体台枠との結合部にあたる台枠板は厚さ4.5mm、幅100mmの平鋼なので、所定の長さに切断し、前記のガイドバー8本を取り付けるためのケガキ、穴あけも自分で行いました。ガイドバーが台車側のガイドの内側をうまく摺動できるように台車側にも穴あけ、タップなどの追加工をしました。バネや軸受とガイド関連の部品は通販で購入、全ての部品が揃ってから組立てました。ところが悲しいかな、ガイドの摺動穴部には直径で2mmの余裕を持たせてあるにもかかわらず、取り付けねじを締め付けると8本のガイドバーが好き勝手に相手側の穴に強く擦れて動かないという事態になりました。元々台車枠の構造上、メジャーと物差しだけを使って精密なケガキをすることが難しいのは事実ですが、粗雑な作業の結果を嘆かわしく思いました。すべてのねじを緩めて可能な限り偏りを修正し、多少の荒療法も交えてなんとか8本のバーがガイドの中を動く状態に辿り着きました。ここでバネを入れて台枠が上下方向に動くことを確認しました。台枠の前後端に体重をかけるとギシギシと鳴るもののバネが撓む様子が感じられ、無蓋車とは全然違う感触を得ることが出来ました。なお運転手が乗る側とその反対側(運転機器のない側)でバネの硬さを変えてあります。バネ定数は、運転手側で約2kg/mm、バネは片側に4本あるので8kg/mmとなり、バネが最大20mm撓んだ時の荷重は160kgということになります。反対側は約1kg/mmで同じく80kg。つまり、運転手の体重を80kgとして車体総重量は最大160kgを想定しています。計算通りに車体が仕上がるでしょうか。

台枠と台車の完成状態


2021/01/21

電車の基本構想

 2016年はいよいよ電車の製作に着手することになりました。鹿部に来る前から大沼電鉄の2軸電車を作ることは決めていて、すでに外観図も描き上がっていました。作り慣れた16番の模型ならボール紙に線を引いて切り抜きにかかるところですが、15インチゲージの電車は車体、台車、駆動部とも1/80の模型とは全く構造が異なります。異なっていると言うよりも、その構造を自分で決めなければなりません。ボール紙の代わりにベニヤ板から切り抜いて補強部材と貼り合わせるのも一つのやり方ですし、実物のように台枠に骨組みを固定して外板を組み付けていくことも考えられます。鉄道関係の書籍やインターネットで昔の木造電車の車体構造を調べることから始めました。皮肉なことに、野ざらしで朽ちていく車体の写真や廃車を解体する過程で撮影された資料があり、それらをつぶさに観察して参考にすることができました。 

駒ヶ岳をバックに大沼湖畔を走るデ1 絵葉書から
デ1型電車完成図
当時の構想図ではなく電車完成後に作成したもの

 できる限りモデルである大沼電鉄デ1型に倣い、基本的に以下の構造で、設計製作することにしました。あえて書いていませんが、私自身が乗り込んで運転できる電車であることは大前提です。

①木製台枠と木製構体に短冊状の外板(羽目板)を組立てた側板、妻板を貼り付けることとし、取り外し可能な木製屋根を被せる。

②ブリル21E型台車に似せたバネ付き鉄製2軸台車を台枠に取り付ける。

③駆動装置は手持ちの可変速モータ(AC100V40W)を使って試作し、検討する。

④ブレーキはメカニカルリンク式を試作し、検討する。

⑤その他外部に付属する部品はスケールモデルとしての形態を保持しつつ、相当の強度と耐久性を確保する。

⑥庭に敷設した線路(計画中の部分を含む)を支障なく通過するために、車体幅は800mm、ホイールベースは800mmとし、側板の窓2個分を短縮して全長約2500mmとする。

⑦駆動装置およびブレーキは試作検討結果に応じて、将来本格的機構を再設計する。

 設計・製作の順序は以下の通りとしました。ただし、塗装はその都度行います。

①木製台枠

②鉄製台車(外注)

③車輪・車軸(外注)

④ブレーキ試作、試験

⑤駆動部試作、試験

⑥木製構体(枠組)

⑦側板・妻板

⑧屋根

⑨ポール・前照灯・連結器

⑩窓・扉

⑪仕上げ(車番・社章)

図面は組立図、部品図毎に採番して分類
 基本構造と製作方針が決まったら図面にして確定します。自分で作るのだから忘れない程度のメモでよいかとも思いますが、初めてのことなので記録に残して方向がブレないように釘を刺しました(木造車体なので)。こうしないと浮気な性分なので作っているうちにどんどんデザインが変わってしまうおそれがあるからです。また外注加工せざるを得ない部品は図面化が必須ですので、いずれにしても描く必要がありました。図面は部位ごとに親‐子‐孫の番号で区分して採番しますが、趣味の世界なので「まっ、いいか!」で済ましている部分も中にはあります。一方で強度計算や駆動系の出力計算も可能な限り図面番号を付して保存してあります。それは本職ですから。

ここには優雅な時の流れが


 これだけの仕事をして電車を完成させるのにどれほどの時間がかかるのか想像がつきません。ただ春から秋の半年ですべてが終わるとはとても思えません。隠居の身なので時間は自由に使えるのですが、健康維持のための体力作り(ジョギング)、趣味のサークル(テニス、魚釣り)、家や庭のDIY、と電車以外にもすること満載です。宮仕えと違って、8時に始めて昼休み1時間、おやつは3時、などという縛りがないのでついダラダラとしてしまい、気が付いたら一日が終わっているという日常にどっぷり浸かっていました。線路が出来て、無蓋車で遊べるようになったので、次の目標はとりあえず電車の完成ということになります。この分では丸3年はかかりそうだと見積りましたが、果たしてどうでしょう。

2021/01/07

駅と車止め

造成中の駅

  本年中の敷設予定である道路まであと少しとなり、目標地点が見えてきました(初めから見えてましたけど)。終端部に駅プラットフォームを作るために土砂の掘削や生垣の移植などをした後、コンクリートブロックやタイルを並べました。将来的に位置の変更ができるようにセメントで固めませんでした。翌年の春にわかるのですが、霜柱の影響や元々地盤が弱いこともあって位置ずれが激しく、ブロックが崩れる恐れが出てきてやり直す羽目になりました。これも火山灰地の特徴なのでしょうか、もともと水はけはよいのですが、いくらきれいに整地しても砂が一緒に沈下していつの間にか石ころだらけになってしまいます。

車止の設計図               完成した車止
注意標識

 大手私鉄のターミナルに設置された大掛かりな車止めは別として、地方の駅の外れにポツンとある寂しそうな車止めは旅情をかきたてるアイテムです。ところがいざ、それはどんな形や構造なのかと言われると具体的に思い出せないものです。ネットで画像検索してもなかなか思い通りのものがヒットしません。レールをグニャリと曲げたものはよく見ますが、これは手作り困難。枕木を材料にしたそれなりの車止めを設計して作り上げたところ、そこそこの出来になり納得です。この部分は敷地内とはいえ道路にかなり接近しているので雪に埋まっている時に除雪車に引っかけられないように注意の看板も作りました。実際には車止めの部分(1m)は雪が降る前に取り外して邪魔にならない場所に退避させるので、まぁこれはご愛嬌です。将来こんな駅名標も建てようと考えています。敷地の奥側にも仮設線路を敷設して総延長は29mになりました。

駅名標

 この間、側板のなかった「名ばかり無蓋車」にアオリ戸を取り付けて「本当の無蓋車」に仕上げました。アオリ戸は、SPF(ツーバイフォー材)t3×38㎜の帯鋼で補強組立し、床板と蝶番で繋いで妻板に打掛錠で固定できるようにしてあります。プラットフォームの横でアオリ戸を開くと水平になって乗降しやすくなります。そんなこともあって無蓋車に簡単な腰掛も取り付けました。趣味が高じて骨董品商を営んでいるご近所の陶片木さんがその腰掛に座って何往復かした後、「いいものに乗せてもらったのでお祝いをしたいけど、何が欲しい?」とおっしゃるので、「JRの放出品で面白そうな物ならなんでもいい。」と言いました。後日、骨董品ネットワークで入手したと言って、楕円形の「車籍日本国有鉄道」と書いた車両銘板をプレゼントしてくれたので、さっそく妻板に取り付けさせてもらいました。

それらしくなった無蓋車         国鉄からの乗り入れ車です

「お召列車」とも言います
 さて12週間に1回程度函館まで買い出しに出かけて帰ってくると、大量の食料品や日用品を庭に停めた車の荷室から玄関先まで、何度も往復しさらに玄関から狭い廊下を台所まで運ぶ必要がありました。道路とウッドデッキを結ぶ線路と無蓋車が完成したおかげで、それらは貨車に満載して一度に直接台所に運び込めるようになりました。足の弱くなった義父母が通院する時も、玄関の段差を気にせずリビングからウッドデッキに出れば無蓋車の腰掛に座って車まで水平移動できるので大変安全になりました。

 こんな便利な自家用鉄道を雪に埋もれたままにするのはもったいないと、この冬は除雪に努めて通年運行することに決めました。例年11月半ばを過ぎると雪が降って一面真っ白のベールに覆われることがありますが、本格的な積雪は12月に入ってからになります。その頃と春先に降る雪は湿っていて重く、融けたら凍るので危険で厄介です。年が明けて冷え込みが強くなるとサラサラの粉雪が積るようになり、嵩の割には軽くて雪かきは適度な運動になります。我が家の場合、玄関やガレージ前に加えて線路の除雪をしなければなりません。毎日雪が降り続くような気候ではありませんが、爆弾低気圧が通過したりすると一晩で5060cmくらいの積雪に見舞われることもあります。そんな場合に備えて無蓋車の腰掛は冬季間取り外しておき、ウッドデッキ上の排雪を空き地まで運ぶのに雪捨て列車が活躍します。

こんな日には            雪捨て列車出動

 

2020/12/26

待避線(余談・雑談) 大沼電鉄の調査

  15インチゲージ鹿部電鉄に旧大沼電鉄の電車を走らせるにあたり、線路の敷設と並行して文献や資料を調べていました。まずは鹿部町の役場へ行き、どうしたらそのようなことを調べることが出来るか尋ねました。教育委員会へ行けば古文書などが保存されていると教えてもらい、事情を説明して倉庫の鍵を開けて入れてもらいました。「電鉄」という分類の文書棚がありましたが、電車の外観や駅の線路配置など図面類のような興味を引くものはありませんでした。今考えるとそれらの文書は鉄道敷設の申請や敷設特許などの貴重な書類ではなかったかと思われます。あらためて調べてみたいと思っています。

 その時に昔の写真は保存されていないのか聞いたところ、電鉄の鹿部駅長の娘さんが持っているかもしれないとのことでお宅を紹介してもらいました。旧大沼電鉄の線路跡沿いに建てられた畑中さんのお家を訪ね、興味深い昔話を聞きながらアルバムを見せてもらったところ何枚かの電車の写真がありました。アルバムを借りてコピーしようかと思いましたが、これらは鹿部町史に転載されているとのことで、あらためて図書館で町史を閲覧することにしました。

デ1とト 鹿部町史写真集から

 さて後日、図書館で件の鹿部町史の写真集を開き電車の写った写真を撮影していると、「何をしているのですか?」と後ろから声を掛けられ「あたかも自分で入手したかのように何かに発表する輩がいるのだが、あなたもその類じゃないのですか?」と厳しく戒められました。その人は、当時鹿部町史の改訂版の編集をされていた教育委員会嘱託の小玉さんで、かつては鹿部町の教育長を務め、その歴史に造詣の深い方です。私は、大沼電鉄の再現のため庭に鉄道の敷設をしていること、そのために資料や写真を集めていることを自己紹介とあわせて説明しました。互いに他意がない事がわかり、むしろ大沼電鉄を含めて鹿部の歴史についてこれを機会に知識を深めていこうと意気投合しました。この出会いこそが、その後の大沼電鉄に関する人の輪を広げて行くきっかけになりました。

 話が前後しますが、畑中さん家を訪ねた後すぐ近くにある大沢商店に立ち寄りました。雑貨店というか食料品から日用品、小学校の近くなので文房具迄あらゆる種類の品物を揃えた昔からある田舎のコンビニです。当然ながら店主夫婦は顔が広くてもの知り、大沼電鉄にも乗ったことがあると言います。「電鉄のことなら南部さんに聞けばいいベサ。」と教えてくれたまではよかったのですが、その人は大学の先生で東京に住んでいる(本当は元大学教授で神奈川在住)とのこと。雲をつかむような話に終わりました。

 それから何日か経って大沢さんから電話があり「いいもの預かってるンだ、あんたなら喜ぶと思うけど、いつでもいいから取りに来な。」と。急いで店へ行くと「札幌の博物館にあったそうだ。」と一枚の紙を見せてくれました。それは「大沼電鉄デ1型四輪電動客車」の竣工図で、大沢さんが南部さんに私のことを電話で伝えたところ送ってきてくれたとのことでした。その図面には電車の主要な寸法や形状が記入されており、その後この電車を作る時におおいに参考になるものでしたが、それよりもそんな貴重な資料があったこと、さらにそれが手元に届いたことに大きな驚きを覚えました。

型式称号デ1 車両竣工図表

 また何日か経って今度は教育委員会の小玉さんから電話があり、「大沼電鉄に詳しい人を連れて訪問したい。」とのこと。待っていると三人の方が車から降りて来られ、まずは庭の線路を見て驚かれました。小玉さんも我が家へは初めての訪問でした。大沼電鉄に詳しい人の一人とは、私にデ1型の図面を下さった南部さんでした。もう一人は南部さんと鹿部高等小学校の同級生で、市立函館博物館の館長も務められた加納さんです。二人は小玉さんの先輩にあたるそうです。小さな町の狭い話題のことですからこんな巡り合わせになるのも当たり前といえばそうかもしれません。

 大沼電鉄の歴史は地元でもすでに忘れ去られようとしているのに、他の土地から来た人(私のこと)が興味を持って研究し、それを再現しようと努力していることに感謝と喜びを感じる、と言われたのには恐縮してしまいました。私は単に鉄道マニアとしての視点から失われた鉄道に惹かれているだけで、感謝までされるとは思っていませんでした。むしろ実際に電車に乗り、見聞きした経験のある人から詳しい情報を得ることが出来ることを期待していたので、気恥ずかしくも後ろめたさを覚えるほどでした。いずれにしても異なった角度から大沼電鉄を研究し、意見を交換しながら知見を広げることで今後も親交を深めていくことにしました。

 南部さんからは国立公文書館に大沼電鉄の資料や図面が保存されていることを教えていただくとともに、そのコピーを分けていただきました。加納さんの電鉄に関する記憶は正確で、鉄道マニアから見ても的を得た多くの情報を知ることが出来ました。さらにお二人の知り合いの方々にも引き合わせていただき、書籍やインターネットからだけでは知る由もなかったことが次々と判明しました。

 例えばWikipediaでも大沼電鉄の閉塞方式は空白になっていますが、タブレットの受け渡しが行われていたこと、色灯式信号機は設置されていなかったことなどの証言は大変貴重です。電車は時々国鉄の五稜郭工場に入場して検査や改良工事を行っていたとのことです。

 車輛の塗色についてはカラー写真がないのは当然としてどの文献にも記録がありませんが、「こげ茶色だった」「国鉄の客車と同じ色」との証言を複数の人から得ました。その他の色に関しては「鹿部駅の屋根は赤茶(鉄錆)色だった」「大沼公園駅の屋根は青色で外壁は白っぽい灰色」などの記録はどこにもなく、地元ならでは伝聞情報です。

 また録音記録などが当てにできない警笛は「(現在の)函館市電と同じ『ポー』という音だった」とのことで、「チンチンという音もしていた」のは、警笛と併用していたのか発車の合図かは不明ながらベルを装備していたことを物語っています。その他、駅や線路の位置に関する証言は、主要駅の線路配置を研究する上でとても役に立ちました。

 国立公文書館に保存されていた図面類とこれらの証言をもとに、現在のGoogle衛星写真上に且つての線路や建物の位置を再現した資料を作成して確認してもらったところ、大変貴重な記録になると喜んでいただくことができました。

 これらの情報は、可能な限り忠実に大沼電鉄の特徴を再現することを目標にしている鹿部電鉄の建設に取り入れるとともに、研究成果として報告書(論文)にまとめ、鹿部町の歴史記録として次世代に伝えようと考えています。

2020/12/25

ご近所パワー


  さてここまでは専用軌道でしたが、その先は道路から玄関への通路を横切るので踏切というか併用軌道になります。その構造は至って簡単、ホームセンターで売っている30cm四方のコンクリートタイルをレールの間と両側に並べることで解決できます。ゲージは381mmですから約40mmずつのフランジウェイが確保できますが、そのままだとタイルが動いたり、タイヤと両側のタイルが接触したりする恐れがあるのでレールの両側に角木材を挟み込んで枕木に木ねじで固定します。
踏切(併用軌道)の構造

 この通路は毎日、郵便・宅配便の配達をする人や我が家を訪問してくるご近所の人、時には乗用車やトラックが入ってきます。そう、レールの輸送時は4トン車も玄関先まで来ました。というわけでこの区間の工事は最短時間で済ませる必要があり、通行止めの弊害が出ない工法を考えないといけません。枕木とレールは別の場所で組み立てておいて、突貫工事で整地と砂利入れを行った後、線路とコンクリートタイルを置く方法を取ります。組立てた軌框は、ご近所のお孫さん達が夏休みにトロッコ遊びに来た時に犬釘打ち体験を兼ねて完成させておいたものです。記念として枕木にサインしてあります。人海戦術を執るために予めご近所でお手伝いをしてくれる人に声をかけ、それに合わせて資材の準備などをしておきました。

すでに完成して設置を待つ軌框       総出で路盤を掘り込む作業
力を合わせて運搬
 作戦実行当日の朝、私と家内を含めて
総勢9
人が庭に勢ぞろいしました。気心が知れたご近所さんばかりですが年齢は全員60歳以上、安全に留意して無理はしないよう訓示してから作業にかかります。まずは既設の線路との水平を確認しながら路盤を掘り込んで行き、取り除いた土砂は一輪車で将来の延長予定地へ運搬して盛土にします。砂利を入れたらまた水平を確認して、全員で線路を運び込みます。ゼネコンに勤務していた経験のある一人が遠方から直線度を見ながら土木専門用語を交えて指示を出し、テコやハンマーで線路の位置を微調整して接続します。コンクリートタイルをはめ込んだのが昼過ぎで、通行止めが解除されました。一人でコツコツ
休憩中にトロッコ遊び
やっているとひと月近くかかる仕事が半日で終わってしまいました。

 当地は、ほとんどの世帯が現役を退いた後第2の人生を送るために移住してきた方々で占められており、サークルや町内会の活動で多くが普段からお互い顔見知りです。密接した住居でありながら壁一枚向こうの家族構成や職業さえも知らない大都会とは、まるで次元が違うのかと思うほどの世界です。それでいて古い因習に縛られるような田舎の堅苦しさはなく、付かず離れずのほど良い距離を保ったご近所づきあいが根付いています。高齢者が多いので日頃から助け合い、菜園で採れた作物や知り合いの漁師さんからもらった新鮮な魚をお裾分けすることも日常茶飯事になっています。たとえ趣味であれ、線路を敷くのに人手が要るとなるとお助けマンたちが駆けつけてくれる、ありがたいコミュニティだと感謝することしきりです。

 目標である表の道路までもう一息になりました。

コンクリートタイルを置いて踏切(併用軌道)がほぼ完成

2020/12/17

レールを曲げる

  スキー場も3月には雪質が不安定になり、4月になると庭の雪がほとんどなくなって、お天気の良い日には屋外で春を迎える作業が始まります。昨年やり残したウッドデッキの仕上げを急がなければなりません。2015年の目標として、5m余りの線路を表の道路まで延長してトータルで30mにすることにしました。

杭の打ってある所が線路延長予定地

レールベンダー

 線路の予定地には樹木が立ちはだかっているので、S字カーブで避けなければなりません。購入して庭に置いてあったレールを持ち上げてみる(33kg)と意外にユラユラと撓り、地面に置くとまた直線に戻るので、これはいわゆる弾性変形です。これくらいの曲率だと軽く撓ませた状態で犬釘を打っていくことで曲線路を作れます。大概実物の鉄道ではそうやっているのだと思います。一方で、急曲線(概ね半径20m以下)は予めレールを所定のカーブに塑性変形させてから枕木に固定する必要があります。森林鉄道や軽便鉄道では現場でレールを曲げる工具を使うそうで、博物館や写真で見たことがあります。

2個の庭石
 庭の片隅に高さが50cmくらいの石が2個、やはり50cmくらい離れて置かれていました。義父が家を新築した時に、アクセントにしようと造園店から購入して殺風景な庭に置いたものだそうです。結構な重量があって、押しても引いてもビクとも動きません。この2個の石にレールの端をかませて他端を押すか、ロープを掛けて引っ張ると曲がりそうな気がしました。果たして結果は? あのどっしり構えた石が動いてしまってレールは全然曲がりませんでした。小学校の理科の教科書に「テコの原理を使って重い石を動かす絵」が載っていたのを思い出しました。

 次に試したのは2本の立木、その根元にレールをかませてロープで引っ張ったところ、大地に根を張った木はビクともせず、ロープを緩めるとレールは元に戻りますが、わずかながら曲がっているように見えました。どこまで引っ張ったかがわかるように目印を付けて何回か試してみたところ、大きく引けば引くほど戻した時に残っている変形量も大きくなっているようでした。順序が逆ですが、工学部の授業で使っていた材料力学の教科書を読み返して計算したところ、約20kgの力で引っ張った辺りから塑性変形(永久変形)が始まるようです。もちろんこの数値は2本の立木の間隔、ロープを掛ける位置で変わってくるのですが、工夫すれば6kgレールは人の力で曲げられることの証しになりました。

 4本の5.5mのレール端1.5mくらいを同じ条件で曲げて突き合わせるとS字カーブになります。結果的にオフセットは500mm、半径は約5mで計画通りうまく樹木を避けて線路が敷設できそうです。邪魔になる切株を掘り起こして整地し、砂利を敷いて枕木を並べ、S字型にレールを置いて犬釘を打てば、11m分の路線延長が完成しました。

敷き終えたS字カーブ

 と言えば簡単な話ですが、少し面白いことがありました。下の写真()を見てください。S字型用地を掘り込んだ路盤に砂利を入れただけなのでレール面は水平なのですが、どう見てもジェットコースターみたいに上下にうねって見えるでしょ。反対側から見ると水平だし、「鹿部ミステリースポット」で売り出そうかと思っていたのですが、枕木とバラストを入れたら普通の線路(写真右)になってしまいました。

本当は左右に振れているだけなのにジェットコースターみたいに見えます

 もう一つ面白い話、このS字カーブを含むレール2本分が繋がれば線路の長さが従来の3倍になります。それを眺めていると、ミステリースポットが「ここを一気に走ると楽しいぜ!」と誘惑してきました。既設の5mで無蓋車に助走をつけてレールを置いただけの新線に突っ込むと、2mも走らないうちに脱線。後にも先にも鹿部電鉄で唯一の「重大インシデント」になりました。レールは枕木に固定してこそ線路、ケガはなかったものの遊び心も過ぎると笑いごとでは済まないという教訓です。