2021/07/24

鹿部電気鉄道はひとまず完成

 

ある秋の日の電車
 「電車の運転手になりたい」という子供の頃からの夢を実現するために、自宅の庭に線路を敷き、自らが乗り込んで運転できる電車を完成させました。年金がもらえる年齢に近づいて退職し、北海道に移住して毎日趣味に没頭する生活もかれこれ6年目に入っていました。元々多趣味の私は、作り鉄以外に釣り、スキー、カヌー、テニス、ジョギングや小旅行などにも時間を割いていたし、ご近所づきあいも大切にしたいと思っていました。ストレスまみれの現実からの唯一の逃避先が趣味であった頃と比べると、なんとも幸せな時間を過ごしているものだとつくづく感じます。だからここまで来るのに5年以上を要したことに対して、能率が悪かったとかもっと電車作りに集中すべきだったとかと思ったことはありません。

日頃のアクティビティ

 長年の夢が実現してしまって燃え尽き症候群に陥るという話はよく聞きますが、夢は無限に広がって行くものです。線路を延長して家を周回するエンドレスに築堤や橋梁、駅舎や北海道らしいシーナリーを作りたい。天気や冬の寒さを気にしなくていい自分専用の物置兼作業小屋がほしい、それはレンガ造りで薪ストーブがいい。実物通りの運転が出来るようなコントローラーと空気圧ブレーキを装備しよう。低電圧で架線集電を実現したい。と言ってこれらが出来上がるまでは死にたくない、と思い詰めたものではありません。若い頃のように思いのままに動く身体ではなくなってしまったし、頻繁なもの忘れを始め思考能力の低下は甚だしいばかり。健康診断を受けてアチコチの臓器の異常な数値に不安がよぎるのも恒例になりました。お迎えが来た時にどこまで出来ているかを楽しみにしたいと思います。

 電車作りができない冬を前に次はどの夢を実現するかじっくり考える時間ができました。

 線路の最終的な敷設計画に近づけるためには、まず分岐器を作らなければなりません。せっかくなので、できる限り実物に近い形状を再現したいものです。「15インチでポイントを自作するには2ヶ月はかかる。」と聞いていましたが、その程度の時間でできるなら自分の力だけで作ることに挑戦しようと思いました。着手するまでに各部の構造と加工方法をじっくり検討することにしました。

 分岐器はもちろん、その先を延長するにはレールを曲げる工具を入手する必要があります。町内の鉄工所になぜかレールベンダーと思しき鉄の塊が放置されているのを見つけ、「廃棄する時は声を掛けて。」と頼んでいたのにいつの間にかなくなってしまっていました。となると、油圧式パイプベンダーを購入して改造するか、自家製レールベンダーを設計製作するしかありません。

 電車を運転していてずっと気になっていたことがあります。ロータリースイッチでモーターと直列に接続した抵抗を順々に短絡して加速しているのですが、巻線のインダクタンス(電磁誘導)が大きいためにアークで接点が溶着する恐れがあったためです。接点容量の大きいスイッチに変更するとともに、運転台に鎮座するクラシックな直接制御器を模したコントローラーを作ることにしました。

 これらの検討・計画は並行して進め、図面を描いたり購入部品の選択をしたり、加工部品の見積りを取って具体化していきますが、まずは直接制御器の製作から始めることにしました。この冬、新型コロナウィルスによる感染症流行の兆候が忍び寄って来ていました。

年賀状に使った画像

2021/07/22

待避線(余談・雑談) 停車場と停留場

  電車や列車に乗り降りする場所のことを一般的には駅と呼びますが、停車場とか停留場(停留所)とも言います。石川啄木の「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聞きにゆく」はあまりに有名な歌です。ここで「ていしゃば」と詠んだのは上野駅だと言われていますが、今どき新幹線も発着する一大ターミナルと停車場はなんとなく別物のような気がします。駅のことを何と呼ぼうと勝手ですが、ことこれが法律で定義されるとちょっと面倒になってきます。

 1919年(大正8年)制定の地方鉄道建設規定では、「旅客又ハ荷物ヲ取扱フ為列車ヲ停止スル箇所ニシテ転轍器ノ設備アルモノヲ停車場ト謂ヒ其ノ設備ナキモノヲ停留場ト謂フ」としています。平ったく解釈すると、大きな駅=停車場、プラットフォームだけの駅=停留場ということになります。下の青写真は国立公文書館に保存されていた大沼電鉄鹿部停留場の平面図です。鹿部駅は終点で、多数の転轍機が設置されているので、上記の規程によれば「停留場」ではなく「停車場」と記されるべきです。また他の文書で「鹿部停車場」と書かれている書類に対して鉄道省の係官が「停車場ト記載アルヲ鹿部停留場ト改ムルコト」とクレームをつけていたことがわかりました。鹿部駅はなぜ停留場なのかと疑問を抱いていました。

鹿部駅平面図

 実は、大沼電鉄は1921年(大正10年)制定の軌道法という、いわゆる路面電車に適用される法律に基いて建設・営業されていたのです。当時の鉄道は、法律によって軌道(市電・路面電車)、地方鉄道(私鉄)、国有鉄道に分類されていました(正式な鉄道の他に軽便鉄道、簡易軌道というのもありました)。大沼電鉄は大沼付近に道路上の併用軌道があったことや山間部の曲線半径を小さくする必要があったため、地方鉄道ではなく軌道として特許(免許)申請したものと思われます。軌道法には停車場の規定はなく、すべて停留場として扱われます。そのため軌道法に基づいた大沼電鉄の駅は、設備の大小にかかわらず終端駅も含めてどれも停留場とすることが正しい解釈になります。

駒見駅側線敷設申請書
 1945年(昭和20年)6月に国鉄函館本線の森大沼間に勾配を緩和した砂原周りの線が開通したのに伴い、戦時下でもあり路線が重複する大沼電鉄は廃止されました。戦後住民の請願により19481月新銚子口鹿部温泉間に縮小して再び線路を復活敷設する際には、地方鉄道として免許取得しています。大沼付近の併用軌道区間がなくなったことと急曲線の特例申請によって認可されたようです。これに伴って終端駅である新銚子口、鹿部温泉および行き違い設備のある中間駅は停車場となりました。19491月駒見停留場の側線敷設申請に対し、運輸省(旧鉄道省)から「設備を停留場から停車場に変更すべきものならずや」と意見されています。大沼電鉄と鉄道省(運輸省)との間で交わされた各種申請書類で国立公文書館に保存されているものに目を通していると、すべてお上に伺いを立ててからでないと物事が進まない官僚主義の煩わしさが伝わって来ます。

 以上は法律に基いた堅苦しい話で、一般的に列車に乗り降りする場所は「駅」と呼べば事足りるし、バスや路面電車の場合は停留所という呼び方が似合います。「ていしゃば」という響きがしっくりする雰囲気の駅はもう見られませんね。訛りを懐かしむ声も聞かれなくなってしまいました。

2021/07/14

YouTubeデビュー

  文化祭の翌日、またご近所さんの力を借りて電車を撤収しました。仕上げ作業、衣装や展示パネルの製作に忙しい日々が続いていたので、何とも言えぬ脱力感に浸りながら日常が戻ってきたような気分でくつろいでいました。

 数日後突然チャイムが鳴って玄関に出ると、狩勝エコトロッコ鉄道の増田さんが立っておられました。2020121日投稿の「車両製作への歩み」で書いたように、15インチ鉄道建設に向けて私の背中を押してくださった方の一人です。廃線利用トロッコの運営支援や記念施設での展示品(模型)製作で道南方面へ来たついでに足を延ばしたとのとこと。「道に迷ったけど庭に電車が見えたので来た甲斐がありました。」と喜んでもらえました。こちらもちょうど完成した電車を見てもらうには絶妙のタイミングで、偶然が重なって幸運の再会となりました。メールで電車を製作していることをお知らせはしていたものの、スケールにこだわった「デ1」の完成した姿を見て大変驚かれた様子でした。

 小雨が降る中、電車を運転して写真や動画を撮影してもらいました。増田さんはエコトロッコのみならずNゲージで北海道の車両や風景を再現した動画をYouTubeに投稿していて、チャンネル登録が数万件、特に踏切模型の動画は視聴数千万回というその方面では著名なユーチューバーでもあります。私もいずれ鹿部電鉄の動画を公開しようと思っていた矢先だったので、編集や投稿の方法を聞いていたところ、「単発投稿よりもチャンネル登録数の大きいところから投稿することで注目度が高くなる。」と教えてもらいました。そしてその日撮影された「【大沼電鉄デ1型電動客車】15インチゲージ走る」がTokatihideからアップされました。おかげで視聴回数は順調に増え、鹿部電鉄もいよいよ世間に知られる存在になりました。

 機会あるごとに知り合いや鹿部電鉄建設でお世話になった方々にYouTubeデビューをメールで伝えました。一方でご近所さんが「YouTube見たよ。」と声をかけてくださることもあります。また一度動画が公開されると連鎖的にネットで拡散されるようで、GoogleYahooで「大沼 鹿部 電鉄」などと画像・動画検索すると徐々にタイトル画面が現れる頻度が高くなってきました。その後私自身も前面展望動画を始めとして投稿するようになりました。

2021/07/05

鹿部町文化祭出展 当日編

  文化祭前日の午後、デ1と展示用線路を積載した2台の軽トラックに追随してキャラバン隊が中央公民館に到着しました。展示スペースとなるバルコニーは一段高くなっていて荷台からは水平移動で定位置に設置することができます。人夫の数が多いので方向転換や横移動も難なくこなせました。車止めを噛ませてこの日の作業は終了です。

搬入作業

 113日文化の日、晴れの特異日とされていますが北海道ではすでに冬の始まり、年によっては雪が降ることもあります。この日雪や雨こそ降らなかったものの朝からどんよりと曇っていました。展示場所は公民館の北側の角で、陽当たりは期待できないどころか時折建物を巻いて風が吹き込んで来ます。パネルを吊るしたパーテイションを保管してある屋内から運び出し、「大沼電鉄デ1型電動客車」の看板や「大沼電鉄の写真や昔話をご存知の方はお申し出ください。」という表示を並べ、鉄道員の詰襟に着替えて準備万端整いました。この衣装は黒(濃紺)の背広の襟を起こし、胸に自家製金ボタン、袖には金帯を縫い付けて昭和の駅長を連想させる出で立ちにしてあります。10年来背広を着たことがなかったのでもっと大胆にリフォームしようかとも思ったのですが、礼服以外の唯一の正装なので切った貼ったはやめて安全ピンを使ってそれらしくまとめました。

所定の展示場所で記念写真撮影

町長と町議(観光協会会長)に大沼電鉄の説明
 が、お客さんの姿はまばらです。開場から1時間ほどして幼稚園児のお遊戯が舞台で始まる頃になると家族連れがホール目指してやって来ますが、みんな電車の前は素通りです。見たこともない電車より我が子の晴れ舞台のほうが気になるみたいです。そのうちにご近所や役場の顔見知りがちらほら立ち寄ってくれるようになりました。前評判では、黒山の人だかりになるとか、新聞の取材もあるとか、言われていたので名刺を何十枚も印刷して用意していたのに空振りです。それでもわざわざ見に来てくれた人たちがいて、「懐かしい」「この色の電車に乗ったことがある」「親から聞いたことある」「プログラムを見て気になった」と話してくれたり、「なんで地元出身じゃね人がこんなことを調べてくれるのさ?」と聞く人もいて少しはアピールになったかと納得しました。

 風はますます強くなって体感温度は真冬並みになりましたが、ダウンジャケットを羽織ってはせっかくの衣装が意味をなさないので足踏みをしながら耐えていたところ、主催者側で足元にストーブを用意してくれました。来訪者も途絶えて来たので予定より早めに店仕舞いし、私にとって初めて出展者になった鹿部の文化祭は終わりました。

鹿部町広報誌2019年12月号に掲載された出展の様子