2025/07/07

待避線(余談雑談) 初めての鉄道写真

  中学2年生の頃、家にあったハーフサイズカメラを持ち出しては近場で市電や国鉄の写真を撮り始めました。キャノンデミという露出計内蔵式の初心者用カメラでした。その露出計の指針に合うようにレンズのリングを回すとシャッタースピードと絞りが決まるわけですから、流し撮りも焦点深度も選択の余地はありません。にもかかわらず、神戸電鉄鈴蘭台駅の外れで撮ったこの一枚はなんとも迫力溢れる写真に仕上がりました。

 被写体はデ1型、開業時から働き続けていた最古参ですが撮影当時はまだ現役バリバリ。そのいかめしい車体を揺すりながら急坂をノッチオフで下って来た瞬間を見事に捉えたのでした。

 意図せずに素晴らしい写真が撮れたのでとても嬉しかったことを覚えています。何年か経ってから友人に頼んでパネルに仕上げてもらい、コンテストに出品しようかと思ったことがありましたが、応募用紙にでたらめなシャッタースピードや絞りのデータを書くことがためらわれて結局諦めました。


2025/06/23

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その5

 ガラクタ整理から帰って来て10日以上経ちました。留守の間庭に生い茂った草の刈り払いや破れたカバーの下でほぼ雨ざらし状態だったキハの乾燥、さらにカヌー部、渓流釣部、テニス部の例会参加と休む暇なしの日が続き、なかなかお宝を鑑賞する余裕を見つけることができませんでした。あっそうそう、神戸を発つ前日に押入れの奥からスライドビュアーが見つかったので写真と一緒に宅急便で鹿部に送ったのでした。何百枚もあるスライドの中から一枚を取り出し、セットしてスクリーンを覗いてみると、 、 、全面にホコリを被ったような黒いまだら模様が映っていました。擦っても取れないところを見るとカビか化学変化のようで、他のスライドもほぼ同様の状態もしくは部分的に赤や黄に変色していました。肉眼で見た時は超貴重なフィルムがあると思って感激したのですが、糠喜びでした。暇なときに残りの膨大な数の点検をやりますかっ。

 一方で白黒プリントはあまり変色してなさそうでした。ただ無秩序に束ねてあるので撮影時期や場所が飛び飛びで、記憶と結びつかないものがたくさんありました。人間の(いや私の)記憶なんか実に曖昧であると思い知った次第です。「キハ40000参考写真その3」(2025/2/20)で「江若の浜大津構内には1両の気動車も見当たりませんでした」と書いていますが、乗車したキハ52はハフ2を牽いているし、その前か後かにキニ11を撮影しているではありませんか!しかも浜大津だけではなく石山坂本線の錦織車庫で「びわこ号」を撮影し、その前にも叡山線に立ち寄ってポール三昧を楽しんでいた証拠が残っていました。こんな時代があったンですよ。

 加古川では「チョッと残念な写真」(2024/10/7)に「このキハ06を撮影した記憶はなく、『なんで撮っていなかったンだろう?』と悔しく思っています」とヌケヌケ書いています。「ほな、この写真は誰が撮ったンや?」そう言うと夏休みに早起きして重連を撮影したような気がします。同じ頃撮影したキハユニ153も珍しい存在ですが、仕分け業務をしていないときは郵便室が解放されていて、私はそこに乗車したという貴重な経験をしています。


 この他にもめくっていたらキリがなくなるので、1970年頃に関東に足を延ばした際の写真をチョイ出ししておきます。

2025/06/07

待避線(余談雑談) お宝発見

  先日来神戸の実家でガラクタの整理をしています。築55年の古家を身内が建て替えることになり、鹿部移住の際に引き払った居宅から避難させていた書籍、雑誌、模型、写真などを「廃棄」「売却」「鹿部移送」に分類しています。鉄道関係だけでなく、タンスや衣類、家族アルバム、釣り具に大工道具、考えただけでもため息が出るばかり。神戸に帰ったのは3年ぶりなので、ご近所さんが歓迎会を催してくれたり、たまたま開催中のお祭りに誘われたり、関西在住の鉄研メンバーと鉄談にふけったり、となかなか手が動きません。それでももう出てこないだろうと諦めていた貴重な写真を大量に発掘できたのは大きな成果でした。モノクロ、カラープリントとカラースライドを合わせて大型の衣装ケースにぎっしり一杯。貧乏学生のスライドは画質より枚数を優先してほとんどがハーフサイズでしたので、老眼では「なんとなく見覚えがある」程度の判定しかできません。スライドビュアーかスキャナーを買って鹿部の冬の楽しみにしようと考えています。

昭和40年代の写真

 お宝の例としては、加古川線のキハ06、走行中の頚城鉄道ホジ3、サンフランシスコのケーブルカー、LRT、BART、各地の私鉄旧型電車気動車。さらに機械式気動車の運転台機器配置メモを見つけたときは感動しました。

レトロ雑誌 マニアックですね

 この作業の目途が立たないと鹿部には帰れない。とはいえ鹿部のキハも待ってくれているだろうし、渓流釣りやカヌー遊びに心が揺れます。雑誌類と模型の箱詰めは終わっており、古い鉄道模型趣味誌を丸ごと引き取ってくれそうな鉄っちゃんのツテが見つかったので返事を待っているところです。今回の作業でケリが付かなければ秋にもう一度最終決戦を予定しなければなりません(たぶんそうなるでしょう)。Wi-Fi環境が窮屈なので報告はこれくらいにしておきます。

こちらもマニアックなOmゲージ(22.5mm₋1/45) Rhätische Bahn

2025/05/27

待避線(余談雑談) 続地域貢献の話

  前回の投稿「駅の改修」のきっかけとなった「鹿部っ子教室」の報告です。昨年9月21日の余談雑談で、私が町内の小学生に講話をすることになって鹿部電鉄を建設するに至った経緯を説明したことを書きました。当初予定されていた見学は住宅地での熊の目撃情報があったために延期されていましたが、危険性が遠のいたと判断されてこの度の実施となりました。

上:大沼電鉄の説明 下:トの手押し体験 ダイワハウス撮影
 参加者は23人、引率補助の中学生やご近所のボランティア、主催の教育委員会やリゾートデベロッパーである大和ハウスのスタッフ合わせて40人以上が一堂に会してイベントが開催されました。小学生は3年生から6年生までが4班に分かれて、バードカービング、家具工房、鹿部電鉄の3か所を巡り、スタンプを集めます。

 鹿部電鉄ではまず、100年近く前に大沼から鹿部まで鉄道があったこと、電車は今あるホームセンターの駐車場を横切り、コンビニの裏手を通り、郵便局の前で川を渡って、バス車庫の近くにあった終点の鹿部駅まで走っていたこと、集電するためにポールが付いていること、サボの文字は右から左に書かれていること、などを説明してからデ1を運転しました。曰く「電車が鹿部の町の中を走っているのを想像しながら見てくださいねー。」 次に転轍機の役割の説明に続いて操作体験をします。最後はみんなが乗ったトを交代で1人が押すという実験をしました。子供の指1本で4、5人が乗った貨車を動かすことができ、動き出したら手を放してもそのまま走る、という「鉄道は少ないエネルギーで多くの人や貨物を運ぶことができるエコな乗り物」を体感してもらいました。ほとんどの子供がJRや市電に乗った経験がないのが現実なので、「『今日、鉄道はいいな』と思った人は、今度函館に行くときJRで家族が向かい合わせの席に座ってオヤツやお弁当を食べながらおしゃべりしてはどうでしょう?」と語りかけて終わりました。


模造硬券 よくできています
 万が一を考えて動力運転での乗車を避けたので不満が出るかと心配したのですが、手押し乗車体験が好評で「最高に楽しかった!」と言ってくれました。スタンプを押す際に、ボール紙にパソコンで印刷した硬券の復刻切符を1枚ずつ手渡しました。都会でも今どきは切符を見たことがない子供がいるとかで反応が不安でしたが、スタンプ台帳に貼り付けたり大事にポケットに仕舞い込んだりして想定外に喜んでくれたのは驚きでした。事故なく終われたことは何よりの成果で、帰りのバスを見送った後ドッと疲れが出ました。

2025/05/24

駅の改修

改修前の駅プラットホーム
段差や傾きの様子が見えます

         Googleストリートビュー
 昨年9月21日投稿の「地域貢献の話」で書いた通り、春になって「鹿部っ子教室」で子供たちが鹿部電鉄の見学に来ることが決まりましたので、崩れかけたプラットホームの土台であるコンクリートブロックとめくれ上がった敷石の改修をすることにしました。5月24日(土)の実施日まで日数はあったのですが、春はサークル活動のイベントやその他の準備作業が目白押し、渓流釣りや山菜採りシーズンも始まるのでなかなか着手できません。いや着手はしたけど進展がなかったというのが正しいでしょう。駅を作った時から10年の時を経て自身の体が年老いて重いブロックを持ち上げるにもテキパキと進まないことをあらためて思い知りました。実はこのブロックは地面に置いただけでモルタル固定していなかったため、雨水の浸透や冬季の霜柱によって少しずつ移動、変形していたのでした。過去に積み直したことがあり、いずれ固定する必要があることは認識していたものの、左官仕事の経験がないので道具もありませんでした。

とりあえずは改修に着手
 なにはともあれ現状のブロックを崩し、さらにジェット水で洗浄して準備は完了。YouTubeでモルタルの扱いを勉強してからホームセンターでバケツやコテ、水糸を購入しました。プロの手捌きを見ると誰でも簡単にできそうだったので試しに少しだけセメントを練ってブロックに塗り付けてみましたが、見るとするのは大違い、戦意喪失してさてどうしたものかと中断を余儀なくされてしまいました。右の写真撮影から下の写真の状態になるまでに約40日が経過して草が茂っています。





老体に鞭打ってブロックにモルタルを塗り付けます
 悩んでいても始まらないのでとにかく見様見真似でそれなりの作業を続け、なんとか期限の2日前に完工することができました。見たところ敷石はきれいに並んでいますが、素人仕事なのでブロック同士がしっかりくっ付いているか全く自信がありません。
  ヘタクソなりにブロック積みを経験して知ったことは次の通りです。何事もやってみないと身には付かない。最初は職人の技を真似するだけでも難しい。上手に、手際よく、見た目も立派に、なんぞは基本をマスターしてからの話。回数(個数)を重ねると上達できることは間違いない。左官仕事は奥が深い。エンドレスを完成させるには裏の低部に橋梁を架けることになりますが、その橋台はブロック積みを計画しています。今回はそのいい練習になりました。
駅改修完了、鹿部っ子教室の開催を待ちます
 「鹿部っ子教室」の様子はあらためて投稿します。

2025/05/15

待避線(余談雑談) 続ゲージの呼称

  日本国内において軌間16.5㎜縮尺1/80をHOゲージと呼ぶことの是非について、私は「どうでもよい」派であると前回の投稿で書きました。その立ち位置についての深掘りはしないつもりですが、なぜ日本でこの16番ゲージがガラパゴス化したのか私なりの推測をしたいと思います。その理由を考えるための切り口は色々あると思うので、ここに書くのはその一断面であるとお考え下さい。

 1872年(明治5年)に初めて鉄道が開通した際のゲージは3’6”( 1067mm)であったことは周知の通りで、その後官営鉄道は全国的にすべてこの軌間で建設されました。これを指示したのはイギリス人技師であるとされていますが、当時のイギリスの鉄道は概ね標準軌(4’8”1/2=1435㎜)であり、3’6”を選択したのにはなんらかの意図があったと思われます。その根拠には諸説あるようですが、当時の国力や地勢が考慮された結果であるとすれば尤もである、と私は考えます。少し時を経て標準軌の私鉄が開業していますが、その車体の大きさは従前とさほど変わりはなく、路面電車として誕生した都市圏の電車の車両限界はむしろ小さいくらいでした。つまり軌間としては2種類(4”6’=1375mmを含めると3種類)あっても車体の大きさはみんな大体同じだったということになります。このお話、新幹線と軽便鉄道は除きます。

左:ドイツ103型電気機関車 右:阪神の881型   いずれも自身撮影
軌間は4’8”1/2(1435㎜)で同じだが車両の大きさがハンパなく異なる

レーティッシェ鉄道Ge6/6II Wikipediaより
 一方海外に目を向ければ、標準軌と言われるだけあって欧米の幹線鉄道の多くは4’8”1/2であり、しかも一般的にプラットホームが低いこともあって車両は見上げるばかりに大きく車内は広々としています。それでも地方に行くと3”6’やメーターゲージ、3”などの鉄道が見られますし、東南アジアでは幹線としてこのような鉄道が敷設されています。これらは軌間に合わせて、標準軌の車両に比べるとひと回り小柄の車体になっています。私の好きな(好きだった)スイスの代表的な私鉄レーティッシェ鉄道(RhB)はメーターゲージで、山岳部を高速走行するためにED級の重連やEF級の電気機関車が使われていました。こんな機関車が何両もの客車を従え、雄大な景観を背にグングン急こう配を上って行くわけですが、時刻表などでは「ナローゲージ(Schmal Spur)」と表記されています。

 つまり日本では軌間にかかわらず車両はほぼ同じ大きさであるのに対して、世界的に見れば軌間に応じて車両サイズが変わるのが一般的であると言えます。そういう視点では、日本の国鉄(JR)はやはりナローゲージに属するのが妥当ではないかと思うのです。ところが、「阪急や近鉄や京急もナローゲージに入れてしまうのか」、「せっかく16.5㎜という便利なレールがあるのに」・・・その他いろんな意見が入り乱れた結果、16番ゲージと言う妥協の産物が出来上がったと思われます。

 その背景には、日本の鉄っちゃんの多くが海外の鉄道に興味を示さないことがあります。あまり接する機会がない、身近な鉄道への愛着が強いが故に他に目が向かない、あるいは恣意的に興味を持たないことなんかもあるようです。悪く言えば島国根性のせいかもしれません。日本型と外国型の模型が同じ線路の上に置かれることは稀で、さらに事情通でなければそれぞれのスケールに違和感を覚えることさえほとんどないでしょう。

「実物の鉄道の線路幅は異なっていても走っている車両の大きさはみんな同じ、模型の線路は(狭軌と標準軌の)どちらにも通用する中間的な幅にしてある、だから仮に外国型の車両を持ってきても同じ線路を走らせることができる。」と多くの日本の模型鉄が思っている(た)ことが、16番ゲージのガラパゴス化を助長した理由ではないかと考えています。私自身が作っていた模型がHOではなく16番というカテゴリーに入るのだということを知ったのは成人してからでしたし、海外の列車に初めて乗車して異次元の鉄道旅に驚きを覚えたのはもっと後のことでした。偉そうに他人のことは言えません。今後は外国の鉄道と接点を持つ人の割合が増えるので、模型の軌間と縮尺の関係に対する考えもますます多様化していくと思います。

2025/04/20

待避線(余談雑談) ゲージの呼称

台湾桃園(台北)空港にあった阿里山鉄道のレプリカ
車体は実物の1/2くらいだがゲージは実寸2’6”かな?
               
2007年頃自身撮影

 作り鉄である私の鉄道の軌間はご存知15インチで、メートル法では381㎜です。車体は約1/3で製作しましたが、この軌間に対する縮尺や名称についての国際規格はないようです。というか私が知る範囲で日本型スケールモデルと言えるのは修善寺虹の郷ロムニー鉄道に保管されているC11ぐらいで、その縮尺が如何ほどなのかもわかりません(詳細はしかるべきサイトを参照ください)。自分では「15インチゲージ」と呼んでおり、このブログのタイトルにもそう書いています。

 鉄道模型の大きさは一般的にポピュラーなものとしてNゲージやHOゲージ、私が幼かった頃は鉄道模型といえばOゲージでした。実際にはそのほかにもいろいろな縮尺や軌間で細分化されています。少し詳しい方ならご承知と思いますが、「○○ゲージ」というのは文字通りの線路幅だけではなく、縮尺も含めた名前なのです。日本国内のHOゲージについてその呼称の是非がずいぶん昔から議論されていて、いまだにネットや書籍等で続けられています。上に挙げたN、HO、Oの各ゲージは国際的に縮尺と軌間が統一されていますが、日本型車両の縮尺1/80はHOゲージの国際標準(規格)である縮尺1/87と合致せずガラパゴス化しています。そのため「HOゲージと呼ぶのは間違い」派と「HOゲージとして定着している」派が対立し、その他に「寝た子を起こすな」派や「12㎜(1/87)」派「13㎜(1/80)」派、「無派閥、無関心」層等に分類されます。私は「どうでもよい」派ですが、過去に作った模型は、対立する両派がともに認める16番(ゲージ)という呼び方を使うことで「問題があることは認識していますよ」と暗に装っています。

 私が「どうでもよい」派である根本的理由は、趣味は自由であるべきだと思うことにあります。自分が作る模型の方向性は当然自分で決める、多様性が尊重される時代なので拘りをもって個性あふれる模型に仕上げる、こうすることで満足感のある趣味を楽しむことができるわけです。ただ大切なことは自分の考えを他者に押し付けないこと、あるいは自分の価値観で他者を批判することがないようにすることです。実は自戒の念を込めて言っているのでありまして、えてしていろいろな作品を目にすると、つい言いたいことを呟いてしまうのが私の癖なのです。さいわい誰の耳にも聞こえない独り言なので棘はありませんが、気づく度に「これはその人の個性、自由な発想なのだ」と言い聞かせて事なきを得ています。1/80を「HOゲージと呼ぶのは間違い」論と「HOゲージとして定着している」論、ご尤もと思う文言と言いすぎじゃないのと感じる部分がそれぞれにあって、余計な口出しをして巻き込まれたくないので「どうでもよい」、と言うのが私の立ち位置です。

 15インチゲージがもっとポピュラーになればいいのに、と常々思っています。鹿部電鉄はこういうポリシーでこんなことに拘って建設していこう、と10年余りにわたって試行錯誤を繰り返してきました。しかし後に続く15インチゲージ鉄道がみんな鹿部電鉄に倣ってほしいなどとは思っていません。ただお互いに「こうしたら上手くいくンじゃないの」とか「こんな失敗をしちゃった」、「ここ拘ってるンだよね」というような会話(ネット交信)ができる相手がたくさんいたらもっと楽しいだろうな、と独り言ちています。