15インチゲージ鹿部電鉄に旧大沼電鉄の電車を走らせるにあたり、線路の敷設と並行して文献や資料を調べていました。まずは鹿部町の役場へ行き、どうしたらそのようなことを調べることが出来るか尋ねました。教育委員会へ行けば古文書などが保存されていると教えてもらい、事情を説明して倉庫の鍵を開けて入れてもらいました。「電鉄」という分類の文書棚がありましたが、電車の外観や駅の線路配置など図面類のような興味を引くものはありませんでした。今考えるとそれらの文書は鉄道敷設の申請や敷設特許などの貴重な書類ではなかったかと思われます。あらためて調べてみたいと思っています。
その時に昔の写真は保存されていないのか聞いたところ、電鉄の鹿部駅長の娘さんが持っているかもしれないとのことでお宅を紹介してもらいました。旧大沼電鉄の線路跡沿いに建てられた畑中さんのお家を訪ね、興味深い昔話を聞きながらアルバムを見せてもらったところ何枚かの電車の写真がありました。アルバムを借りてコピーしようかと思いましたが、これらは鹿部町史に転載されているとのことで、あらためて図書館で町史を閲覧することにしました。
デ1とト 鹿部町史写真集から |
さて後日、図書館で件の鹿部町史の写真集を開き電車の写った写真を撮影していると、「何をしているのですか?」と後ろから声を掛けられ「あたかも自分で入手したかのように何かに発表する輩がいるのだが、あなたもその類じゃないのですか?」と厳しく戒められました。その人は、当時鹿部町史の改訂版の編集をされていた教育委員会嘱託の小玉さんで、かつては鹿部町の教育長を務め、その歴史に造詣の深い方です。私は、大沼電鉄の再現のため庭に鉄道の敷設をしていること、そのために資料や写真を集めていることを自己紹介とあわせて説明しました。互いに他意がない事がわかり、むしろ大沼電鉄を含めて鹿部の歴史についてこれを機会に知識を深めていこうと意気投合しました。この出会いこそが、その後の大沼電鉄に関する人の輪を広げて行くきっかけになりました。
話が前後しますが、畑中さん家を訪ねた後すぐ近くにある大沢商店に立ち寄りました。雑貨店というか食料品から日用品、小学校の近くなので文房具迄あらゆる種類の品物を揃えた昔からある田舎のコンビニです。当然ながら店主夫婦は顔が広くてもの知り、大沼電鉄にも乗ったことがあると言います。「電鉄のことなら南部さんに聞けばいいベサ。」と教えてくれたまではよかったのですが、その人は大学の先生で東京に住んでいる(本当は元大学教授で神奈川在住)とのこと。雲をつかむような話に終わりました。
それから何日か経って大沢さんから電話があり「いいもの預かってるンだ、あんたなら喜ぶと思うけど、いつでもいいから取りに来な。」と。急いで店へ行くと「札幌の博物館にあったそうだ。」と一枚の紙を見せてくれました。それは「大沼電鉄デ1型四輪電動客車」の竣工図で、大沢さんが南部さんに私のことを電話で伝えたところ送ってきてくれたとのことでした。その図面には電車の主要な寸法や形状が記入されており、その後この電車を作る時におおいに参考になるものでしたが、それよりもそんな貴重な資料があったこと、さらにそれが手元に届いたことに大きな驚きを覚えました。
型式称号デ1 車両竣工図表 |
また何日か経って今度は教育委員会の小玉さんから電話があり、「大沼電鉄に詳しい人を連れて訪問したい。」とのこと。待っていると三人の方が車から降りて来られ、まずは庭の線路を見て驚かれました。小玉さんも我が家へは初めての訪問でした。大沼電鉄に詳しい人の一人とは、私にデ1型の図面を下さった南部さんでした。もう一人は南部さんと鹿部高等小学校の同級生で、市立函館博物館の館長も務められた加納さんです。二人は小玉さんの先輩にあたるそうです。小さな町の狭い話題のことですからこんな巡り合わせになるのも当たり前といえばそうかもしれません。
大沼電鉄の歴史は地元でもすでに忘れ去られようとしているのに、他の土地から来た人(私のこと)が興味を持って研究し、それを再現しようと努力していることに感謝と喜びを感じる、と言われたのには恐縮してしまいました。私は単に鉄道マニアとしての視点から失われた鉄道に惹かれているだけで、感謝までされるとは思っていませんでした。むしろ実際に電車に乗り、見聞きした経験のある人から詳しい情報を得ることが出来ることを期待していたので、気恥ずかしくも後ろめたさを覚えるほどでした。いずれにしても異なった角度から大沼電鉄を研究し、意見を交換しながら知見を広げることで今後も親交を深めていくことにしました。
南部さんからは国立公文書館に大沼電鉄の資料や図面が保存されていることを教えていただくとともに、そのコピーを分けていただきました。加納さんの電鉄に関する記憶は正確で、鉄道マニアから見ても的を得た多くの情報を知ることが出来ました。さらにお二人の知り合いの方々にも引き合わせていただき、書籍やインターネットからだけでは知る由もなかったことが次々と判明しました。
例えばWikipediaでも大沼電鉄の閉塞方式は空白になっていますが、タブレットの受け渡しが行われていたこと、色灯式信号機は設置されていなかったことなどの証言は大変貴重です。電車は時々国鉄の五稜郭工場に入場して検査や改良工事を行っていたとのことです。
車輛の塗色についてはカラー写真がないのは当然としてどの文献にも記録がありませんが、「こげ茶色だった」「国鉄の客車と同じ色」との証言を複数の人から得ました。その他の色に関しては「鹿部駅の屋根は赤茶(鉄錆)色だった」「大沼公園駅の屋根は青色で外壁は白っぽい灰色」などの記録はどこにもなく、地元ならでは伝聞情報です。
また録音記録などが当てにできない警笛は「(現在の)函館市電と同じ『ポー』という音だった」とのことで、「チンチンという音もしていた」のは、警笛と併用していたのか発車の合図かは不明ながらベルを装備していたことを物語っています。その他、駅や線路の位置に関する証言は、主要駅の線路配置を研究する上でとても役に立ちました。
国立公文書館に保存されていた図面類とこれらの証言をもとに、現在のGoogle衛星写真上に且つての線路や建物の位置を再現した資料を作成して確認してもらったところ、大変貴重な記録になると喜んでいただくことができました。
これらの情報は、可能な限り忠実に大沼電鉄の特徴を再現することを目標にしている鹿部電鉄の建設に取り入れるとともに、研究成果として報告書(論文)にまとめ、鹿部町の歴史記録として次世代に伝えようと考えています。
0 件のコメント:
コメントを投稿