2025/02/20

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その3

  最初の投稿「事の始まり」(2020/10/08)で書いた通り、1969年(昭和44年)の春晴れて大学生になった私には半年近く自宅待機の日々が続いていました。昨今の感染症流行による外出自粛と違い、何の憚りもなく遊びまわっていいので気楽な身分でした。その年の11月1日限りで江若鉄道が廃止になるというので、カメラを持って浜大津を目指しました。当時から気動車好きではありましたが、旧型気動車となると加古川線か別府鉄道くらいしか接点がなかったので江若鉄道にもそれほど強い興味があったわけではありません。むしろ京津線のポール集電が翌年廃止されることの方が気になって、浜大津では電車の写真ばかり撮っていました。何しろ運転頻度が全然ちがうし江若の浜大津構内には1両の気動車も見当たりませんでしたから。ずいぶん待ってやっと来たのは元熊延鉄道のキハ51(または52だったか覚えていません)で、塗色が国鉄の交直両用電車(60Hz)と同じであるのに驚きました。その頃は鉄道雑誌のグラビアもほとんどが白黒で、敢えて色に興味がなければ勝手に想像していたからです。浜大津から雄琴温泉まで乗車し、交換した対向列車に乗って帰ってきたのですが、それが同じキハ50の片割れだったのでがっかりでした。今思えば、せめて三井寺下車庫で下車して他の車両の撮影をしておけばよかったのにと悔やまれます。三井寺下-浜大津間はたった600mしか離れていなかったのです。

   京津線のポール電車80型        熊延鉄道時代の江若キハ50型熊本県H.P.より

 そんな出会いの後すぐに江若鉄道は廃止されてしまい、結局まともな写真は残っていません。しかし地方私鉄の撮影行脚を始めてからは熱烈な旧型気動車マニアになり、現役時代を詳しく知らないまま16番模型を作ったり(こういうのはよくあります)、他の私鉄に散らばった仲間の撮影に出かけたりするようになります。翌年の春、鉄研を立ち上げたメンバーと連れ立って撮影旅行に出かけた折に岡山臨港鉄道で早速出会ったのが元江若のキハ12、キニ13で、キハ5001、5002として働いていました。5001の方は江若時代に車体が中途半端に近代化されて直視に耐えないような形相を呈していました。それは原形が「びわこ型」と呼ばれる独特の流線形車体だったのを無理やり鋼体化してアルミサッシやHゴム窓にしていたからです。びわこ型は山陽電鉄や神戸電鉄で見慣れていて、その変貌ぶりと正面/側面のアンバランスは雑誌などで予備知識があったものの、目の当たりにして驚いたり呆れたりしたものです。

左:岡山臨港鉄道にて元江若鉄道DD1352と元中国鉄道のキハ3001 鉄研撮影旅行にて自身撮影     
                     右:別の日のキハ5001 富田さん撮影

江若廃止前のキニ4と同型の元キニ6から__
貫通総括制御化されたキハ5123 
小林さん撮影
 江若鉄道にはこれら流線形のキニ9-13と側面がほぼ同じ窓配置で正面が3枚窓(竣工時は4枚窓だったらしい)のおとなしいスタイルのキニ4-6がありましたが、私は後者のほうが断然お気に入りです。そしてこれこそ国鉄キハ41000のお手本になったと言うか、車体長を縮めた以外そっくり設計流用されたとも言われています(チョッと言い過ぎかな)。もう一つ余談の余談ですが、戦後このガソリンカーにトレーラーバス用の大型エンジンを搭載してディーゼル化したとされています。トレーラーバスと言うのは進駐軍が放出したトラクターを改造して別に作った客室部と連接構造にしたもので、私は1955年(昭和30年:6歳)頃神姫バスが運行していたのに乗車した経験があります。とてつもなく大きいバスだなと思ったことを覚えていますし、エンジンも当時としては相応に強力なものだったということでしょう。最下に参考写真を添えています。

御坊臨港鉄道(現紀州鉄道)キハ16 富田さん撮影
 江若鉄道(日本車両)のDNAを受け継ぎ国鉄で誕生したキハ41000は、戦後キハ14-17として琵琶湖畔に帰ってきました。これらは無骨な木製雨樋を纏うことなく最後まで優美な姿を保っていました。キハ16だけは御坊臨港鉄道(紀州鉄道)に譲渡され、その後他の旧型気動車と一緒に元気に働いている様子を確認しています。一方キハ42000はキハ18-24として江若鉄道に籍を置き、片運化や貫通化、総括制御化などの改造を受けたものは廃止後も譲渡先で活躍を続けました。このうちキハ24は貫通化改造の際に上の写真のキハ5123と同じくユニークな離れ目2灯になっていたので、美熟女に心奪われた私はそれを模型にして毎日眺めていました。ところが加越能鉄道を経由して関東鉄道常総線に終の棲家を得たと思っていたところ、久しぶりに見た写真にはヘッドライトが中央に移され妻面のアルミサッシ窓が無粋なHゴム固定になったおばあさんの姿が写っていて呆然としました。”関東鉄道キハ551”で検索すればその姿を見ることができます、が私は見たくありません。

2025/02/07

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その2

  国鉄から私鉄に譲渡されたキハ41000は67両、キハ40000は10両 (RMライブラリーキハ41000とその一族による)とのこと。製造数がそれぞれ190両と30両であったので、同じような比率で約1/3が私鉄に渡ったことになるようです。なおキハ40000に関しては半数の15両が外地へ供出された他、戦災やキサハ化などにより国鉄ではほぼ使われていなかった模様です。一方私鉄にはコピー設計した新造車両があって、微妙に国鉄車と違っているのが興味を惹きます。

 1951年(昭和26年)宇都宮車両(→富士重工→SUBARU)で製造された常磐炭鉱キハ21はキハ40000に準じた寸法ですが、車体上部は張り上げ屋根になっていて国鉄車より幾分モダンなスタイルになっています。原型は低いプラットフォームに合わせて乗降口が2段になっており、外観は路面電車のようにステップ部が大きく垂れ下がっていたようです。その後岡山臨港鉄道に移籍した際にステップは一般的な寸法に変更されています。羽後交通には片側にバケット(荷物台)を備えたキハ41000ベースの3両の張り上げ屋根車がありました。最初に登場したキハ1は常磐炭鉱向けより1年早く竣工していて、当時の写真(白黒)では車体長とバケット以外そっくりです。後に続くキハ2とキハ3は川崎車両製で、こちらは湘南顔になっていて金太郎塗りでした。私は1970年(昭和45年)に横手を訪ねていますが、臙脂とライトブルーの塗装が美しかったことを覚えています。残念なことにキハ1は火災で短命に終わり、雑誌やネットにもほとんど取り上げられていません。宇都宮車両は片上鉄道にもキハ41000タイプの張り上げ屋根車キハ311、312を納入しています。こちらは正面が2枚窓ですが傾斜がないので湘南型にはなりきれていませんし、せっかく雨樋がないのにその後車体と屋根が塗り分けられてスマートさに欠けてしまいもったいない感じがします(個人の好みによります)。現代でこそ張り上げ屋根なんか珍しくもありませんが、全金属製車両が登場する以前は側面と屋根の構造が異なっていたため、張り上げ屋根にするには少し面倒な工事が必要だったようです。当時の屋根は木の板を並べて曲面にした上にキャンバスを張り、コールタールを塗って防水するのが一般的でした。一方で側面は1.6mm(電車・客車は2.3mm)の鋼板を骨組みにリベットで打ち付けてあるので、外板を屋根まで延長するには屋根の骨組みの寸法まで変更しなければならないのでした。今鹿部電鉄で製作中のキハ40000は側板と妻板を構体に取り付けた後、別に組み立てた屋根を被せる方法を採ろうとしていますが、何を隠そう昔ながらの製作法に倣っているわけです。宇都宮車両や川崎車両がどのような工法を採用したのかその詳細は知る由もありませんが、おそらくは側面から屋根部まで一体の構体(骨組み)に同じ鋼板を貼り付けて行ったのではないかと想像します。すでに溶接による車体組立てや全金属製車体の製造に踏み出していた時代背景があったからではないかと想像します。

 張り上げ屋根ではない大多数の旧様式の気動車の車体側板と屋根の境目がどうなっているかと言うと、これがまた興味深くいくつかに分類できます。

 キハ41000とキハ40000の製造当初は屋根のキャンバスを側板に被せて鋲で止めてありました。言ってみれば張り下げ屋根です。これでは雨が落ちてくるので扉の上だけ水切りを設けて乗降時に濡れにくくしてあります。私の嗜好を言わせてもらうなら、この樋なし屋根がもっともスマートに見えて大好きです。鹿部電鉄ではこのタイプにすべく屋根の設計をしています。

 一部の私鉄では車体全周に張り下げたキャンバスの継目を隠すかのように水切りを巻いた車両がありました。一見樋のように見えますが、溝状になっていないので雨を流す機能はありません。

 コンパクトな鋼製の雨樋を巻いた車両もあります。なぜかキハ42000には新製時もしくはその後早い時期から鋼製雨樋がついており、この形式については鉄道会社や時代に関係なく他の構造に改造した例をほとんど見たことがありません。ただし鹿児島交通や夕張鉄道の自社発注車は正面のみ張り上げで樋がありません。水島臨海鉄道のキハ310(元中国鉄道買収気動車)はキハ41000タイプですが、雨樋がスリムな鋼製であるだけで他の車両と比べてとてもスマートに見えました。もちろん一般の利用者はそんなことには全く気を留めません。

鋼製雨樋付き九州鉄道記念館のキハ07(42000)と正面張り上げの鹿児島交通キハ100 鉄研富田さん撮影

 キハ41000タイプで最も多いのが木製雨樋です。前の投稿で北丹鉄道の「何の変哲もない」キハ04の写真をご覧ください。金属物資が不足した戦時中に限って木材を使用したのならわからなくもありませんが、戦後にせっかくノーリベットで登場したキハ41600(後のキハ06)が不細工で太いハチマキを巻いて3ヶ月の間に50両も量産されたのは不思議でなりません。晩年、休車や廃車で保守が行き届かないまま放置された時に真っ先に朽ちるのは木部であり、車庫の外れで痛ましい姿を晒しながら最期を待っている老体をやるせない気持ちで見送ったのも一度や二度ではありません。

 旧型気動車の張り上げ屋根と雨樋の余談雑談でした。余程の好き者でないと面白くもなんともない内容です、はいわかっています。

2025/01/24

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その1

  過日加古川で撮影した(隅の方に写っていた)唯一のキハ06の写真を載せました。学生時代に地方私鉄を訪ねて撮影した旧型気動車の写真が何枚もあるのですが、大部分は実家のどこかで荷物の下敷きになっているかタンスの引き出しの奥で眠っているはずです。もともと整理が下手で写真は撮りっ放しでした。何回か探そうと試みていくらかは救出しましたが、これ以上掘り出して見つけることはできないでしょう。そうなると昔の写真は他人頼みになるわけで、鉄研のメンバーが撮影した貴重な旧型気動車の記録をこのブログに引用させてもらうべく連絡を取ってお願いをしていました。

 そんなやり取りをしている時に見つけたのが北丹鉄道のキハ10 2です。10と2の間に微妙な間隔があって、型式キハ10の2号機みたいな表記です。鉄研のアルバムに貼ってあった1970年(昭和45年)天橋立で合宿した時の写真で、その前後には加悦鉄道の片ボギー車やキュウロク牽引の客レなど珍しい写真が並んでいます。撮影者と思しきメンバーに訊ねたのですが、今もって誰が撮ったのか著作権者不明のままです。元国鉄のキハ04で、塗色は腰板と幕板が臙脂で窓まわりがクリーム、もう一両あったキハ10 1は幕板も窓まわりと同じクリームで雨樋が臙脂に塗装してありました。2両とも扉はプレスドアに交換されています。言ってみれば旧型気動車としては何の変哲もない車両ですが、こいつが走っていた線路がとてつもなくヘロヘロで、上下左右に酷く揺れるので自転車並みのスピードが限界でした。

キハ102 福知山西駅 1970年7月5日 撮影者不明
 曲線区間ではトロッコの線路みたいにレールの継目でカクッと曲がって行く感じで、いつ脱線するかとハラハラしながら乗車しました。レールを曲げずに敷いて継目で少しずつ曲がるように繋ぐとは何たる手抜き工事かと呆れたのですが、このことについてWikipediaにその理由が書いてありました(出典不明)。元々建設資金が乏しかったので河川敷に線路を敷設したが、度重なる増水の被害で道床の砂利が流失したため曲線部のレールが元の直線(と言ってもヘロヘロ)に戻ってしまった由。修復も儘ならぬほどの経営難であったそうです。庭園鉄道では曲線部のレールは敷設前に曲げておきますが、実物の鉄道では弾性変形の範囲でわずかに曲げながら枕木に打ち付けて行くので、道床の砂利がなくなってしまったらさもありなんと乗車以来55年目にして納得したのでした。こんなことがわかるのも自分でレールを敷設した経験があればこそで、手抜き工事ならぬ金欠による手抜き保線が原因であったわけです。

 件の写真は福知山西駅停車中に撮影されたもので、妻板の左端の車窓には鉄研の旗を持った若き私が写っています。終点の河守(こうもり)までスリル満点の約12kmを、運転手の両手足による操作を観察しながら片道1時間近くかけて往復し、起点の福知山の一つ手前の車庫所在駅まで戻ってきたところをメンバーの誰かが撮影したのでしょう。それが誰だったのか全く記憶がありません。

 キハ40000に限らず学生時代の旧型気動車撮影行脚の思い出をシリーズで綴っていきます。


2025/01/14

今年の作業計画

  新年を迎えて今年の計画を立てようと考えましたが、もう何年も前からやらなければならないと思いながら手がついていない案件がいっぱいあってお手上げ状態になっています。特に昨年はキハの製作に集中することを最優先課題にしたこともあって、腐った枕木の手入れ(交換)や路盤の造成などを、大手を振って(?)後回しにしたツケが回って来ています。とは言えせっかくここまで出来たキハにあと少し力を注いで上回りの見栄えがするところまで持って行きたいのも山々です。ということで、計画立案を前にしてまずは昨年末まで溜まっていた案件を書き上げることにしました。

 キハの製作を開始して今年でもう3年目になりますが、どんな作業を放ったらかしにしていたのか漠然としか把握していませんでした。ブログの記事を遡ると2022年8月に「今後の方針とタイムスケジュール」というタイトルで、その時点での予定をリストアップしていました。前半はカヌー格納庫の整備とキハの台車に関して資材の手配や製作で、現時点でそれらはすでに完了しています。2年以上前に計画を立てて以来見直しはしていないけれど方向性にブレはなかった、と妙に納得しました。

 後半は、エンドレス延長、キハ留置線敷設、キハの車体と動力装置の設計・製作が挙げられていますので、今やるべきはこの詳細を詰めて優先順序を決定することです。

1.キハ車体

側・妻板、扉、ディテール(シル・ヘッダー)、屋根、通風器、前照灯、連結器の取付けおよび塗装

2.メンテナンス(線路・車両)

腐朽枕木交換、砂利交換、プラットフォーム修繕、車止め修繕、デ・ト再塗装

3.エンドレス延長

路盤造成(裏山土取り)、線路敷設、既設線区へのガードレール敷設、鉄橋設計

4.キハ留置線

路盤造成、簡易分岐器設計・製作、建屋設計・建築

5.キハ動力装置

構想(妄想)・設計・製作

 とりあえず優先順位の高いものから書きましたが、保線に関しては緊急事態が想定される場合や、鹿部っ子教室の見学スケジュールに合わせる必要があるので柔軟に対処することにします。キハがそれなりの完成度を見たあかつきには留置線にはせめて屋根が必要になりますから、優先順位が変わる可能性があります。いずれにしてもキハ車体の完成がすべてのスケジュールに影響を及ぼすので、これには心して向き合うつもりです。そのためにも冬ごもりの間に屋根や連結器、ベンチレーターなどの設計と材料手配を済ませておかなければなりません。キハの動力装置は妄想ネタとして最高に楽しいのでじっくり時間をかけて考えます。

留置中のキハ 現在はカバーをかけて雨ざらし

2025/01/01

謹賀新年2025

  昨年は15インチゲージを始めて以来の危機に遭遇しました。鹿部電鉄建設計画半ばにして6kgレールが生産中止になり、残りの線路敷設を諦めざるを得ない状況に追い込まれましたが、捨てる神あればのことわざ通り奇跡的にレールを入手することができて息を吹き返しました。

 妄想トレインたるキハ40000の製作は、ご多分に漏れず遅れ気味ながら、台車に続いて車体がその姿を見せるところまで漕ぎつけました。本年は是非とも鮮やかな塗装に身を包んでせめてキクハとして完成させたいと思っています。

 車両製作・整備と並行して既設線路の改修と新規線路の延長にも力を注ごうと考えています。体力的には厳しいものを感じており、どこまで計画(妄想)通りに進められるか甚だ疑問ではありますが、この歳になれば何より気力が大切であることはご近所の先輩高齢者が模範を示されているところであります。テニス、渓流釣り、カヌーと相変わらずの多趣味を楽しみながら、メインはやはり私のアイデンティティである庭園鉄道人生を享受することにあります。

 新年のご挨拶代わりに、季節外れですが写真を添えておきます。

2024/12/29

待避線(余談雑談) 鉄っちゃんの特技 続編

  ペーパーで長年16番模型を作ってきたのでボール紙工作は私の得意技です。ボール紙を切って貼り付けるだけでは見た目が良くないので、全体および特に継目にパテを塗り込んではサンドペーパーで成形を繰り返し、最後に塗装で仕上げるのが常套手段です。これによって滑らかな曲面を表現することができるのですが、その工程を知らない人はまさかその部分がボール紙で出来ていると想像できません。得意技は鉄道模型製作だけでなく日常生活の中でも役立っています。

100円ショップで買ってきたゴミ箱に荒縄を巻き付け、家の周りに生えている草木を挿して
門松を作ります。塩ビパイプを斜めに切ってボール紙製竹の切り口をはめ込むと完成です。
 いつも年末になると門松を作ります。神戸にいた時は同級生の植木屋さんに頼んで青竹を分けてもらい、節のところで斜めに切って門松の真ん中に挿し込んでいました。これが口を大きく開けた笑い顔に見えることから、一年間楽しく過ごせるようにという願いが込められているのです。北海道に来て門松を作ろうとしたとき、家の裏の雑木林に入るとシダ類や笹をはじめ門松に使える色んな材料が豊富にあるのですが、青竹だけがありません。ホームセンターへ行っても売っておらず、仕方なしに塩ビ管を買ってきて斜めに切り、緑色のスプレーで塗装しましたが切り口が全く竹ではありません。ここで特技を発揮、節の部分を斜め切りして笑い顔を表現したボール紙細工を嵌め込むと塩ビが見事な青竹になって門松が完成するのです。以来10年間繰り返し使っていますが色褪せることなく永遠の蒼を保っています。

カップヌードルで作った優勝カップに、ボール紙製で漆塗り風仕上げの台座と金色の銘板。
 所属しているテニスサークルでは昨年から大会を催しています。当初優勝者には持ち回りの優勝カップを授与することにしていましたが、高齢者ばかりなので預かっている間に運動ができなくなったり引っ越したり紛失したりする可能性があるとのことで対応に行き詰ってしまいました。たまたま私が世話役をしていたので、「格安の優勝カップを作りましょう」と提案したのでした。何のことはないカップヌードルとどん兵衛を重ねただけですが、ボール紙製の台座を漆塗り風に仕上げ、金色塗装した銘板を貼り付けることでパロディとしての価値が上がり、大会当日の表彰式は大いに盛り上がりました。

パリオリンピック金メダル
 今年はオリンピックパリ大会を模した金メダルを作って授与式を執り行いました。リボンを付けて首に掛けると、優勝した当人は「少し重量感が足りない」と感じたようですが、周囲は「偽メダルはどこで入手したの?」「えっ、作った?」「ボール紙?」とまた盛り上がりました。来年の大会には何を作るか、腹案がないわけはありません。

2024/12/26

待避線(余談雑談) 鉄っちゃんの特技

  最初の投稿「事の始まり」(2020年10月8日)で書いた通り、もの心ついた時から鉄っちゃんで、寝ても覚めても電車のことを考えて生きてきました。すべての価値判断の基準が自分の好きな鉄道(電車)にあったので、進学、就職など人生の節目はもちろん日常生活でも色んな影響を受けています。

中学生になって親から借りたカメラで身近な電車を撮影するようになりました

 若い(幼い)頃に読んだ本(雑誌)で鉄道ファンの先輩の博学に憧れ、鉄道に関する知識は何でも取り入れて自分の物にしなければならない、という意識を持ったことがありました。本当は好きでもないSLの形式を覚えようとしたり、有名な鉄道写真家の構図をマネたり。かけだし鉄っちゃんによくあるパターンで、○○線がなくなるとか新線開通の記念切符が発売されると聞くと、自分の気持ちとは裏腹に強迫観念が働いてしまうようなことがあったものです。鉄道評論家になるとか職業として鉄道に関わる場合は別にして、大好きな電車のことを知りたいのなら自分の心が向かう方向にのめり込んで行けばよい、そのことに気付いたのは思春期を過ぎた頃だったと思います。

 テレビニュースなどで地方の風景とともに遠くに路面電車の姿がチラッと見えただけでどこの街かがわかったり、CMに映し出された電車内の光景から窓枠の形を読み解いて××線の△△型だと言い当てたりできるのは、長年好きな電車を追いかけてきたからだと思います。

 最近YouTubeで「昭和の【路面電車】併用軌道から専用軌道に入る全15シーンの路線名を当ててください」という動画を見つけました。よく似た内容ですが続編もあります。

ほぼ全問正解
https://www.youtube.com/watch?v=8vHDej2Pp0Y

https://www.youtube.com/watch?v=Ymnp_t7RQMw

見覚えのある軌道がフィルム動画の前面展望で再現されています。電車とのすれ違いは答えが出るまでありませんから、街並みや特徴的な線路際の構造物などから路線名を推察しなければなりません。画面に映り込んだ前面窓の特徴は大きなヒントになります。一目でわかる江ノ電や京津線は初級者向けですが、私は地方線もほぼ全問正解でした。正直に白状すると、西鉄・筑豊には乗っていなかったのでよくわからず、山を張ったら大当たりでした。

路面電車の専用軌道、鉄道線の併用軌道、どちらも痺れます   自身撮影

 「昭和の路面電車」というのがミソで、これが「平成・令和の東京の地下鉄」なら全然わからないどころか興味も沸かなかったことでしょう。つくづく自分の心が向かう方向にのめり込んだ結果だと思います。いま鉄オタ向けのテレビバラエティがあり、若い鉄っちゃんが喜びそうな内容で新登場の電車や列車が取り上げられています。その最新型電車のデザインは総じて私好みではありませんが、そこで繰り広げられる彼らのトークを見ていると心が向かう方向には共感するところがあります。時代が変わっても世代が違っても求めているものは全く同じなのだなと感心しました。

 子供が他人の真似をして成長していくのは世の倣いですが、素直に自分の心が向かう方向を見極めることこそ大人鉄へ踏み出す第一歩ではないかと思います。