2025/01/24

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その1

  過日加古川で撮影した(隅の方に写っていた)唯一のキハ06の写真を載せました。学生時代に地方私鉄を訪ねて撮影した旧型気動車の写真が何枚もあるのですが、大部分は実家のどこかで荷物の下敷きになっているかタンスの引き出しの奥で眠っているはずです。もともと整理が下手で写真は撮りっ放しでした。何回か探そうと試みていくらかは救出しましたが、これ以上掘り出して見つけることはできないでしょう。そうなると昔の写真は他人頼みになるわけで、鉄研のメンバーが撮影した貴重な旧型気動車の記録をこのブログに引用させてもらうべく連絡を取ってお願いをしていました。

 そんなやり取りをしている時に見つけたのが北丹鉄道のキハ10 2です。10と2の間に微妙な間隔があって、型式キハ10の2号機みたいな表記です。鉄研のアルバムに貼ってあった1970年(昭和45年)天橋立で合宿した時の写真で、その前後には加悦鉄道の片ボギー車やキュウロク牽引の客レなど珍しい写真が並んでいます。撮影者と思しきメンバーに訊ねたのですが、今もって誰が撮ったのか著作権者不明のままです。元国鉄のキハ04で、塗色は腰板と幕板が臙脂で窓まわりがクリーム、もう一両あったキハ10 1は幕板も窓まわりと同じクリームで雨樋が臙脂に塗装してありました。2両とも扉はプレスドアに交換されています。言ってみれば旧型気動車としては何の変哲もない車両ですが、こいつが走っていた線路がとてつもなくヘロヘロで、上下左右に酷く揺れるので自転車並みのスピードが限界でした。

キハ102 福知山西駅 1970年7月5日 撮影者不明
 曲線区間ではトロッコの線路みたいにレールの継目でカクッと曲がって行く感じで、いつ脱線するかとハラハラしながら乗車しました。レールを曲げずに敷いて継目で少しずつ曲がるように繋ぐとは何たる手抜き工事かと呆れたのですが、このことについてWikipediaにその理由が書いてありました(出典不明)。元々建設資金が乏しかったので河川敷に線路を敷設したが、度重なる増水の被害で道床の砂利が流失したため曲線部のレールが元の直線(と言ってもヘロヘロ)に戻ってしまった由。修復も儘ならぬほどの経営難であったそうです。庭園鉄道では曲線部のレールは敷設前に曲げておきますが、実物の鉄道では弾性変形の範囲でわずかに曲げながら枕木に打ち付けて行くので、道床の砂利がなくなってしまったらさもありなんと乗車以来55年目にして納得したのでした。こんなことがわかるのも自分でレールを敷設した経験があればこそで、手抜き工事ならぬ金欠による手抜き保線が原因であったわけです。

 件の写真は福知山西駅停車中に撮影されたもので、妻板の左端の車窓には鉄研の旗を持った若き私が写っています。終点の河守(こうもり)までスリル満点の約12kmを、運転手の両手足による操作を観察しながら片道1時間近くかけて往復し、起点の福知山の一つ手前の車庫所在駅まで戻ってきたところをメンバーの誰かが撮影したのでしょう。それが誰だったのか全く記憶がありません。

 キハ40000に限らず学生時代の旧型気動車撮影行脚の思い出をシリーズで綴っていきます。


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