2020/11/25

待避線(余談・雑談) 犬釘の話

  時々、本文の話題から少し外れて余計なお話しを書きます。鉄道に因んで「待避線」というタイトルにします。今回は犬釘トリヴィアです。

①なぜ犬釘というかについては、レールを固定するために頭部が偏心していてそれが犬の首に似ているから、というのが通説です。しかしどう見ても似ていませんよね。じつは犬釘が発明された頃のそれは犬そっくりなのです。

初期の犬釘 (Wikipediaより)

②犬釘の先端は尖っています。ただし、鉛筆みたいに丸く削ってあるわけではありません。頭部の偏心方向に合わせて先端両面がテーパー状に尖らせてあります。これは釘を打ち込んだ時に枕木が割れないように、つまり枕木の長手方向にクサビの力が加わるように考えられているのです。このテーパーが頭部の偏心に対して直角方向に尖らせてあるものがあります。どんな用途に使われるのか推測してみてください(答えは最後)

特殊な犬釘(左)と普通の犬釘(右)

③枕木の割れ防止の工夫が他にもあります。犬釘は枕木中心の一直線上に打たず、上から見て「ハの字」状の位置に、両側のレールを挟んで少しずらした位置に打ち込みます。同じ木目上の近い位置に2本の釘を打つと割れを引き起こすおそれがあるからです。

犬釘の位置はハの字

④犬釘は熱間形鍛造という製造方法によって成形されます。鋼材(棒鋼)を約1000℃に加熱(赤熱)し、頭部とテーパー部が形成されるように金型で衝撃加圧(プレス)して作られます。最後にグラインダーなどを使ってバリを除去し尖端を鋭く仕上げます。よく見ると一本一本に手作り感があふれています。

犬釘の製造 (帝国製鋲動画より)

 ②の答え:チョッとした溝などを越えるために枕木を橋桁代わりに縦方向(進行方向)に渡したり、はしご状に枕木を置いてレールを固定する場合にこの犬釘を使います。

縦枕木に打たれた犬釘 (保線ウィキより)

2020/11/24

最初の犬釘

 鹿部に移住してくる前に線路をどう敷くか色々と考えましたが、この時点では鹿部電鉄全体計画の概要は下図のようになっていました。その後も駅舎・工場の建築や引き込み線のアイデアが妄想のように出て来ては消え、また信号機や架線柱の設置を具体的に考えたこともありました。しかし鹿部電鉄の基本的なレイアウトはこの図から大きくは変わっていません。以下最初の犬釘を打つまでの記述は、母屋、ウッドデッキの前(図の下側)に敷いた線路の話です。

 ウッドデッキの土台部分が朽ちている話をしましたが、DIY机作りの次には家族からその修復を急ぐよう要請されていました。確かに危険な状態で、放置すると誰かがケガをしそうにも思え、線路敷設の前に手を施す必要に迫られました。とりあえずは電動丸鋸を使って一気に解体してしまいました。ウッドデッキが使えなくなって不便ではあるけれど危険要因が消えてひと安心です。次に新しいウッドデッキを設置するにあたり、整地と束石を置くための穴掘り作業が待っていました。当地は活火山である北海道駒ケ岳の東側山麓に位置し、地面は数mの厚さの火山灰層に覆われています。火山灰とは名ばかりで、実際は火山礫と言ったほうが正しく、直径が数cmから数十cmある無数の軽石を含む赤茶けた土を掘り起こさなければなりません。スコップはほとんど地中に入らないのでまずツルハシでほぐし、大石を取り除いてからスコップを使うという骨の折れる作業になります。ウッドデッキに接して線路用地があるので一緒に整地することにしました。

ウッドデッキの解体            解体後の整地結果

 地面の水平を出すために連通管式の水準器を作って使用しました。長さ10m、φ6透明チューブの両端を、目盛りの付いた長さ1m程で逆T字型の柱に固定して水を注入し、同一面上で両水面が一致することを確認しておけば、離れた場所でも水面が元の目盛り通りにもどるようにすることで水平が取れるはずです。ヒトの頭くらいある石ころやら吹き溜まった枯れ葉に埋もれていた用地は、丸二日の作業の結果真っ平らで見違えるばかりキレイになりました。それを見るとウッドデッキはさておき一刻も早く線路を敷きたいという欲求が込み上げて来ました。ウッドデッキの束石も新たに設計図通りに埋めなおして整列したので、誰が見ても計画通りにことが進んでいるという印象を持つと思います。少しぐらい道草を食わせてもらってもいいか、と決断しました。

整地した線路用地と連通管式水準器
 整地した部分の長さは6m以上あるので、まずはレール1本分5.5mをそのまま敷くことができます。その部分に必要な枕木の数をどうするか、風呂の湯に浸かっている時や布団の中で眠りに就くまで、夜中に目が覚めた時に暗算しながら考えます。継ぎ目の部分つまりレールの両端面は2の枕木が接するように配置するとして、5.50.07(枕木の幅)=5.435.4mを枕木ピッチで割れば本数が求められます。うまい具合にピッチを30cm(=0.3)にすれば、昔懐かしい植木算で18+1本という数字が出てきます。旧鉄道省の規程で最もゆるい丙線では10mあたり13本なのでピッチは約77cm、それを1/3にすると約26cmということになり、すこし広めにすればローカル感が出るかなと思った次第。なお細かい話ですが実物の軌間3’6”=42”=1067mm 1/3に縮尺すると14”=355.6mmになるので、15インチゲージはスケールより広めであり、見た目の間隔はほぼ丙線規程通りということになります。いずれにしても30cmというのはキリがよい数字で、後々線路敷設に際して便利なことがありました。実際レールと枕木を40cmピッチで並べてみたところ間が抜けたように見え、貨車の留置側線ならこういうのもありかと思いました。

枕木間隔の計算

 その頃風呂と寝床で考えたことが他にもありました。枕木に打ち込む犬釘の下穴のことです。犬釘の断面は19mmの正方形で結構な太さがあり、枕木の材質も比較的硬いので、適切な下穴でないと釘が入らないとか木が割れるとか釘が簡単に抜けてしまうという問題が発生する恐れがあります。結局これはいくら考えても答えが出るわけではなく、実際に打ち込んでみて、また抜く必要が生じた時に人力で抜くことができるかどうかを確かめてみるしかありません。その前にハンマーとクギヌキをホームセンターで買ってきました。もちろん犬釘用の専用工具の通販もあるようですが、6kgレールという特殊な用途に適しているか不安要因があったので、作業をイメージしながら手に取って使えそうな物を選びました。ハンマーは店頭にあった一番大きなもの(1.3kg)で、結果OKでした。クギヌキも一番大きいL型平バール(90cm)で、購入後釘の頭を引っかける溝をグラインダーで9mmに拡大してちょうど犬の首が嵌るように加工しました。さて、木工用ドリル径を変えて何種類かの穴をあけ、最終的にφ10なら無理なく打ち込めて件のバールを使えば一人で抜くことができることを確認しました。何年か経って釘が錆びた時も同じような力加減で抜くことができるかは確かめる術がないのでいささかの不安は残ります。

L型平バール(90cm)            犬釘が嵌るように加工
 いよいよ犬釘を打ち込む段階ですが、はやる心を抑えてその前に治具を作りました。一つ目の治具は下穴の位置決めに使うもので、枕木にいちいち穴の位置をケガくのは面倒だし、不正確にもなります。そこでマスターになる枕木をあらかじめ作っておいて、これから穴あけをする枕木にかぶせ、すでにあいている穴をガイドにドリルを通すという寸法です。二つの枕木が作業中にずれるのを防ぐために、治具の底面から木ねじの先端が12mm出っ張るようにしておき、作業前にハンマーで軽くたたくとそれが食い込んで位置決めが確実になります。二つ目は文字通りゲージです。枕木を線路幅に切ったものを通常の長さの物にねじ止め(または接着)して凸状にします。釘を打ってレールを固定する前に、線路幅が正しいことを確認するために使用します。

二種類のゲージ
 ここでまたもや悩みが発生しました。ゲージとは軌間のこと、レールの断面が2個並んでその頭部の内のりに寸法線が描き込まれている図で説明されています。一方、車輪メーカーの説明図では両フランジの外側の寸法がゲージであると説明されています。どちらも正しいとするとスキマがなくなり、公差(誤差許容値)を考慮すると車輪がレールに乗り上げてしまうことにもなりかねません。ただし、曲線部ではこれとは別にスラック(slack)といって余裕を持たせることになっています。先に書いた15インチゲージの軌きょうメーカーの場合はそれぞれに決めているようで、線路基準の場合と車輪基準の場合があるようです。例えばモデルニクスの場合は車輪基準で、線路側を直線、曲線とも共通の390mmとしています。私は、直線部は線路基準で381mmとし、曲線(R=5m)でスラックを最大10mm設けることにしました。必然的に車輪側は少し狭くなりますが、タイヤ幅が広いので現実的に脱輪はあり得ません。ここで重要になるのは、バックゲージ(両車輪の内のり)があまり狭くなると分岐部で尖端レールにフランジが接触する問題が発生することです。これは分岐器を製作するときに考えることにしました。今は念頭にありませんが、他の15インチ鉄道との車両の相互乗り入れをする場合には確認しておかなければならない数値です。

 話を元に戻すと、直線部で軌間が基準の381mmになるように、また多少(mm程度)の調整ができるようにレール底部の幅より少しばかり広い位置に下穴のガイドをあけました。下穴は枕木中心の一直線上にあけず、上から見て「ハの字」状の位置に、レールを挟んで少しずらした位置になるようにします。その理由は別の項で説明します。もう一つの治具もちょうど381mmに切って、直線部で両側のレールが接触するようにしました。下穴ガイドを使えば効率よく穴あけができ、あっという間に予備を含めた20本あまりの作業が終わりました。

枕木穴あけ治具               ゲージ

防腐処理後の枕木
 次に枕木に防腐剤クレオソート油を塗布します。刷毛で塗るというより、石油缶の中でジャブジャブと浸けると言った方が正しい表現になります。一度乾燥してからもう一度含浸させました。義母がどうしても線路敷設を手伝いたいと言うので、この作業を任せました。クレオソート油がゴム手袋に着くとシワになったり破れたりするくらいですから、直接肌につかないように注意しなければなりません。発がん性物質も少量ながら含まれているそうなので気になります。

 これで準備が整ったのでいよいよ線路の敷設が始まります。整地した地面の上に約1m幅で厚さ10cmの砂利を敷き、ここでまた連通管式水準器を使って1mおき位に高さを確認しながら均していきます。そこに枕木を30cm間隔で並べ、2本のレールを置きます。この時、それぞれの枕木とレールの間にスキマがないか、つまり特定の枕木だけがレールに接触しているようなことがないか確認します。左右2本のレールの上面が同じ高さになっていることは必須条件です。枕木を押し付けながら揺すったり、持ち上げながら下に砂利を詰め込んだリすることで高さ調整ができます。実物の鉄道では動力を使って砂利を振動させながらこの調整をするのですが、すべてを人力で済ませるのが15インチゲージ鉄道の宿命です。

個々の枕木の水平と長手方向の水平を確認しながら枕木を並べる

 犬釘を打つ時に枕木が砂利に沈み込むのを避けるために枕木の下に10mm厚位の大きめの板を仮に敷いて衝撃を分散できるようにしておきます。そして予めあけておいた下穴に犬釘の先端部をあてがってハンマーで軽く打ち込み、手を放しても自立するようになったら徐々にハンマーを強く振り下ろし、釘の頭とレールの底部が接触する5mm程手前で止めておきます。枕木1本について4本の犬釘がこの状態になったら前記のゲージ治具をレールの間に挟んで位置決めし、ゲージが固くも緩くもない状態にあることと、レールと枕木が直角になっていること、を確認しながら最終的に固定します。数本分の釘を打てば、最後はハンマーの音が変わることがわかってきます。

 枕木は実物の1/3の寸法にしてあり、6kgレールの断面寸法も50kgのほぼ1/3ですが、6kgレール用犬釘はオーバースケールになっていて、実は枕木の底から少し突出しています。衝撃分散板を使うもう一つの理由はここにあって、釘の真下を避けて2枚の板を敷く必要があります。砂利の道床に敷設する限りはこの突出は実用上全然問題になりませんが、コンクリートやアスファルト上でお座敷運転()する場合は、枕木の厚さを100mmにするか短めのスクリューとレールクリップ(角座金)を使用することになります。

最初の犬釘を打ち込む

 道床の上で犬釘を打っていく方法を説明しましたが、水平を確認した道床の上に別の平らな場所で釘を打って完成させた軌框(レールと枕木の組立品)を載せる方法もあります。この場合は左右の継ぎ目のギャップを等しくするために正確な組み立て精度が要求されますが、工期短縮のメリットなどがあるので作業方法はその場の状況に応じて選択すればよいと思います。

 まだ線路は完成していません。枕木の間や周囲に砂利を入れる必要があります。実物の鉄道でこんな状態のまま列車を運転すると徐々に線路が移動してしまうのであり得ない話ですが、もし何か不都合があって作業をやり直すことになった場合砂利を除去するのが大変なので、これはしばらく先延ばしにしました。

 曲がりなりにも(直線ですが)念願の線路が庭に出現しました。レールや犬釘が自宅に届いた時も大感激でしたが、やはりそれを上回る喜び、いや夢のような話です。実際これは夢ではないかと何度も顔をつねってみました。世の中探しても奇妙の類に数えられるこの道楽を、本人のみならず家族も一緒になって喜んでくれるのですから感謝しなければなりません。次はこの線路の上を走る車両を早く作って期待に応えようと決意しました。

2020/10/11

レールの調達

  次は金物類です。今の時代なんでもインターネットで調べることができます。先に枕木を発注したことを書きましたが、調べると「軌框」(ききょう)という名で15インチゲージ線路の完成品が市販されていることがわかりました。発売元によって長さは1.1mとか2.75mとか、定尺(5.5m)から切り出した寸法になっています。別のサイトで価格比較もされていますが、意外にリーズナブルです。模型のお座敷運転の感覚で、庭の片隅でトロッコ遊びするのには適していると思います。またレイアウト案を描けばそれに合わせて曲げや切断もしてくれる、逆にすべてがオーダーメイドになるので図面検討が必要とも書いてあります。いずれもレールと枕木の締結はスクリューとレールクリップ(角座金)のようで、簡単確実かもしれないけれど、私は犬釘にこだわりがあったので購入に踏み切れませんでした。

軽レールのJIS規格と
使用例(芦生森林軌道)
 やはりインターネットで大阪の小川レール商会がヒットしました。以前、まだインターネットが普及していなかった時代の話ですが、鉄道模型雑誌にレールの販売店を探すのに苦労した話が載っていたので心配していました。6kgレールのJIS規格があることは仕事中に鉄鋼材料の資料を調べている時に目ざとく見つけて知っていましたので、探せばどこかで購入できるだろうとは思っていました。需要は15インチゲージ庭園鉄道だけではなく、工場や学校の大型門扉など身近なところにあります。スパイキ(犬釘)やペーシ・モール(継ぎ目板)もネットカタログにあり、早速見積依頼をしました。ここで大きな問題が発生。レールは、5.5mの定尺のままでは宅配便はもちろん、一般の混載便でも扱えないので専用貨物になります。レールを生産している製鋼所のある京浜地区から小樽か苫小牧までは船便、そこから鹿部まで200km余り4トントラックをチャーターしなければならないので、最低でも別途運賃が10万円かかります。レールの価格は定尺で1本約1万円なので、計画中の総延長110m40本約40万円のさらに25%が輸送費になります(消費税抜き)

 寝床に就くと、庭に敷かれた線路の上の電車を運転している自分の姿を想像しながら眠りに入っていくのが常なのですが、ふと不安がよぎる日があります。いくら余生は趣味に没頭すると決断したとはいえ、総延長100m超の庭園鉄道は本当に実現できるのだろうか。電車の運転は夢だったけれど、素人の力だけで最後まで鉄道建設の困難に立ち向かえるのか。それだけの初期投資をして途中で気力が失せたり他の趣味に気が移ったりすることはないだろうか。せめて20~30mほどの線路でトロッコ遊びができるところまで作ってみて、見通しが立ってから本格的に延長することにしたほうがよいのではないかと思い始めると、寝付けなくなってしまう夜もありました。しかし、購入するレールの本数を減らしてもトラックをチャーターしなければ鹿部まで輸送することができません。仮に本数を減らせば減らすほど総額に対する輸送費の占める割合が多くなっていきます。
 もし函館辺りで鋼材を扱っている企業があれば何か打開策があるのではないかと考え、やはりインターネットでヒットした藤光鋼材にレールを扱っていないか聞いてみました。いとも簡単に「取り寄せて配送します」との返事が返って来たので、見積を依頼したところ単価は多少割高ではあるけれど20(55m分)の購入ではこちらが有利と判断しました。ただし、スパイキ、ペーシ・モールは小川レールの方が安く、これらは混載便で大阪から取り寄せることにしました。発注した枕木の20060m相当はこの時の計算によるものです。藤光鋼材は、この後も車軸用の丸鋼や車体台枠の一部に使用した鋼板など、小口調達でも親切に対応してくれておおいに助かりました。

 スパイキ類はファックスで発注し、代金を銀行に振り込んでから一週間もしないうちに自宅に配送されて来ました。ずいぶん昔の話ですが、木曽森林鉄道の廃線跡を歩いた時に道端の一隅に錆びた細い犬釘が忘れられたように落ちているのを見つけて持ち帰ったことがありました。それ以来、兵庫県や鳥取県などの山奥で森林鉄道跡を探訪することに興味を持つようになり、朽ちた枕木に刺さったままの犬釘や土の中に埋もれたレールを見ると異様な興奮を覚えるのでした。そういう時は腰に下げて行った金鋸を使って230㎝の長さにレールを切出し、リュックに入れて持ち帰るのが楽しみになりました。*) 

廃線跡で草に埋もれていたレール    切って磨くと命が蘇ります

*)法学者に確認したところ、場合によっては違法行為になるので注意。
家で更に1㎝くらいの厚さに切り、ヤスリやサンドペーパーを使って錆を落として磨き上げ、クリアや銀色の塗料を吹き付けて机の上に飾ると、幻の森林鉄道が蘇ったようで無性の喜びを感じるのでした。拾った犬釘もまた同じです。告白します、そう私はレールフェチなのです。
スパイキ、ペーシ、モール

そんなところに大量の犬釘が届きました。錆も傷もない鉄紺色のバージンスパイキが我が物になった日の夜、密かにそれを握りしめ不気味にほくそ笑む私の姿がありました。

 次の日の昼前に4tユニック車(クレーン付きトラック)が自宅の前に来たのが窓越しに見えました。荷台にはレールが積んであるのですが、大型車には不釣り合いで申し訳なさそうに一列に並べてありました。トラックが庭に入れるかと気を揉みましたが、プロドライバーは巧みなハンドルさばきで母屋の前まで進めてクレーンのフックをワイヤーにかけると20本のレール(660kg)を一気に降ろしました。大きな買い物にもかかわらず、わずか10分あまりの早業で納品され、あっけに取られている内にトラックは帰って行きました。これまた山奥で何十年も雨にさらされ泥をかぶって錆びるに任されていたものと違い、断面には鋭い角が立ったバージンレールです。「それが今、我が家の庭に横たわっている!」と考えると、まだ新しいオレンジ色の錆に薄っすら覆われたレールの踏面に思わず頬ずりしてしまいました。レールの断面を何度も眺めながら、いよいよ長年夢見て来た鉄道のオーナーになる日も近い、との思いが込み上げて来ました。

「我が家にレールが来た!」

2020/10/10

枕木材料の調達

  枕木は材質を何にするかで調達先が変わります。ホームセンターで売られているSPF(ツーバイフォー材)は、雨水に濡れ直射日光にさらされる地中での耐久性がないので最初から除外しました。インターネットで調べた限りでは、木質樹脂の杭材の尖端を切り落として使うと半永久的な寿命が期待できると書いてあるものの、単価が高いのと寸法的に適切なものが手に入らないという問題がありました。ちょうどこの頃、家の南面にあるウッドデッキが設置以来10年ほど風雪にさらされて土台部分が朽ち、危険な状態になっていました。業者に修理の依頼をしたところ、やはりSPF材で作られており、寿命に達しているので全面的に作り直さなければならないとのこと。60万円余りの見積書を見て、こちらも耐久性のある長寿命の木材を探して自分で設計施工することにしたので、材質の選定をする必要に迫られました。

朽ちたウッドデッキの支柱       新しいウッドデッキの構想

 我が家の前の道を挟んで斜め向かいに、私と同じく退職後趣味を楽しんでいる方が家具工房を構えています。その長沢さんは定年を迎えた後職業技術専門校で一年間木工を学び、一連の木工機械を揃えて作業建屋を自宅敷地の一隅に構え、ご近所や知り合いからの依頼を受けてオリジナルの各種家具を作っています。私もこの後電車の車体製作で全面的にお世話になるのですが、木材の性質について知識があるので、枕木とウッドデッキの材質の相談をするために扉をたたきました。長沢さん自身が各種の木材を加工していてその性質に精通しているのですが、一度仕入れ先の製材所を一緒に訪問して専門家に相談してみようと勧められました。

 鹿部から車で西の方へ一時間余り走った厚沢部(あっさぶ)町に広葉樹の製材や家具販売をしている鈴木木材があります。社長の鈴木さんは「木と話ができる」と言います。丸太を見ると「ここをこう切ってくれ」と言う声が聞こえるそうです。「日陰で育った木を家の陰になるところで使ってやるといつまでも元気にしている。使い方を間違えると木は死ぬ。」とも言っていました。鉄道用枕木については、津波で被災した三陸鉄道の復旧のために大量に納入した実績があり、アカシアが適しているがクリも同様に耐久性があり枕木によく使用されていたとのこと。近年枕木はほとんどがコンクリート製になってしまって、あまり需要がないそうです。結局アカシアの枕木50×70×720mm200本と、ウッドデッキ用の各種寸法クリ材をまとめて発注しました。枕木は1本あたり約240円で、30cm間隔で並べると200本で延長約60mになります。60mという距離はレールの仕入れとも関係しますので後述します。

 発注から一ヶ月ほどでウッドデッキ用の材料とともに枕木が鈴木木材のトラックで運ばれて来ました。



2020/10/09

新天地にて

  冬の間無人で雪に埋もれていた別荘も5月になると新芽や色とりどりの花に囲まれます。旅の荷を解いて居住環境の整備を始めました。元々義父母の夏の別荘なので、定住を考える私たち夫婦には不足するものが色々とありました。パソコンを置いたり、本や図面を広げるには食卓を使うしかなかったので、机を買うことにしました。函館まで車で1時間ほどかけて何軒かの家具店をまわりましたが、子供用の学習机ではなくしっかりしたものは意外な価格が付いていて購入するのをためらいました。時間はたっぷりあるし、とっかかりのDIYアイテムとして机は最適です。材料だけでなく何種類かの電動工具を揃えても、合計額は高いと思った机の値段よりも少なく収まりました。投資した工具類は今後必ず必要になる物なので納得でした。爽やかなお天気のもと、屋外での木工作業は本当に気持ちのいいものです。

5月の鹿部 この庭に線路が敷かれる予定     初夏の日差しの下DIY

製作した机と椅子

 環境整備と並行して鉄道建設のための材料調達にも着手しました。基本的に必要な資材は、バラスト、枕木、レール、スパイキ(犬釘)、ペーシ・モール(継ぎ目板)です。いずれもホームセンターで小売りされているものではありません。まずは調達先の調査をして、小口販売に応じてもらえるかや運賃を含めた見積額などを問い合わせました。バラストは近隣の土石販売業者に電話したところ、社長が直接訪ねてきて使用目的や必要量などを聞いたうえで、その日のうちにダンプを運転して搬入してくれました。2.5㎝サイズの玉砂利2トンで18,000円とのことでしたが、領収書もなく社長の個人営業(小遣い稼ぎ)ではないかと思います。本当に2トンあるのかもわからず少し不安になりましたが、後日庭作りのために砂利や砂を購入したことがある何人かのご近所の方に聞いた話では「そんなもんでしょ」とのことでした。

2020/10/08

鹿部前史

  転機が訪れたのは2009年に定年を迎えた後、嘱託契約になって閑職に就いた頃です。仕事の片手間に老後の過ごし方を考えるようになりました。義父は退職後北海道に別荘を建て、目の前のゴルフ場で夫婦して唯一の趣味に明け暮れる生活をしていました。私はゴルフをしたことはありませんが、趣味に没頭する生活は人生の締めくくりとして最高の過ごし方であると思っていました。私も在職中から度々そこを訪ね、自然豊かでありながらインフラが整備された別荘住宅地の生活に憧れを抱くようになり、少し長めの休暇を取っては義父母とのんびり森の中での暮らしを楽しむようになりました。

 話は変わりますが、201310月に大滝森林鉄道フェスティバルがあり、以前から興味のあったモーターカーに乗ってみたいと、前夜木曽福島で車中泊して会場に乗り込みました。体験乗車の行列に並びましたが受付直前でモーターカーは満席となり、ディーゼル機関車の牽く木造客車の乗車券しか取れませんでした。なぜモーターカーなのかと言うと、狭い車内で目の当たりにクラッチペダルや変速レバーの運転操作が見たかったからでした。ギシギシと軋む木造客車の乗車は貴重な体験ではありましたが、本命を逃した無念から唇を噛んでいたところにあったのが、広場でデモンストレーション中の15インチゲージ鉄道でした。蒸機風の小型機関車が西武色の客車とフラットカーを牽いていました。以前にインターネットの動画で見たことがあるような気はしましたが、15インチゲージの列車を実際に見たのは何十年も前に出張先のイギリスでロムニー・ハイス・ダイムチャーチ鉄道に乗って以来のことでした。その機関車を運転していたのが庭箱鉄道総裁の松田さんで、当時は「じめたもみじ先生」と名乗っていたようです。

庭箱鉄道 9633機関車
 線路や車輪の入手方法や軸受の構造などを根掘り葉掘り聞いた後、電車のような運転操作機器に興味が湧いて質問を続けていると、「運転してみますか?」と尋ねられました。子供の頃から一度でいいから電車の運転がしたかったのにことごとくその夢を実現できなかった不幸な男は、俄かにはその言葉を信じることができませんでした。運転席に座らせてもらいマスコンやブレーキハンドルの説明を聞いていると、長い間忘れていた小さな2000型を運転した夢が頭を過ぎりました。思わず頬が緩み、とうとうここに辿り着いたかという喜びに浸ると同時に、またしてもこれは夢ではないかと少し不安になりました。なぜならその9633機は見るからにおとぎ話の国から抜け出てきたような外観だったからです。

  その頃には退職後北海道の義父母の別荘へ移住する決意をしていたので、そこでの15インチゲージ鉄道の敷設が現実味を帯びる大きなきっかけになりました。別荘の敷地は約800(250)の広さがあり、都会では考えられないような遊びを楽しむことが出来ます。仕事にもどると早速、車両の大きさや運転可能な線路の半径、敷地にどう線路を敷くか、どんな車両、どんな施設を作るかを考え始めました。仕事に戻っていませんね。嘱託雇用契約は翌年の9月まで残り1年を切っていましたが、すぐにでも退職して移住したい気持ちに駆られました。しかし移住先は寒さ厳しい北海道、まもなく大地が雪に覆われようとする時期はどう考えても事始めには向いていません。半年間じっくり計画を練り、準備を整えて春を待つことにしました。

 あらためて庭箱鉄道の9633機やロムニー・ハイス・ダイムチャーチ鉄道の動画を見たり、その他の15インチゲージ鉄道の情報収集をしたり、と本格的に庭園鉄道の建設計画を始めました。漠然と自分が乗れる電車のことを考えていた頃とは違い、パーツの構造やそれに使用する部品の入手や加工の方法などを考えながら具体的な全体像を練っていきました。まず車両は電車と決めました。それはやはり、電車の運転手になりたいという子供の頃からの夢を実現するために必然の成り行きでした。しかし、あの山陽2000型の2両連結スケールモデルはおそらく無理だろうと早々にあきらめ、あまり無理をしないで作るためには2軸の路面電車が現実的であろうと考えました。候補は子供の頃からなじみ深い神戸市電の300型か400型、あるいは1150型のショーティ、大好きな札幌市電のD1040型ショーティなどです。札幌を作るなら路面シリーズで地元(近隣)函館市電も視野に入ります。こういう想像をするのは実に楽しく、取りとめもない妄想が広がっていきます。パソコンで図面や写真を切り貼りしてショーティのイメージを作ることはそれほど難しい作業ではありません。D1040は気動車なので、電動ではなく小型ガソリンエンジンを動力にすることも面白い選択肢でした。並行して庭の線路のレイアウト、駅や車庫の場所と分岐の配置、路面電車ならトラバーサーがあったほうがいいとか、架線柱や信号機の形態など考えなければならないことが次々と出てきます。これらもパソコンを使うことで簡単に描いては消すことができるので楽しい作業でした。

神戸と札幌のショーティが半径3mの曲線を問題なく通過できるかという検討

 その少し前のことですが、移住を予定していた鹿部にはかつて電鉄があったことをインターネットで知りました。昭和のはじめから戦後にかけて、観光地の大沼と温泉のあった鹿部を結ぶ鉄道に2軸電車が走っており、市立函館博物館発行の歴史資料に大沼電鉄敷設特許の申請から廃止に至るまでの詳細が記述されていました。鉄道ピクトリアルの19653月号には車両の種類や寸法と性能の諸元、図面や写真の他、廃止後茨城交通に主力車両が譲渡されたことなどが記されていました。また廃線跡や遺構についても説明があり、その一部が今でも現認できることを知って深い興味を持つことになりました。廃止されてから年月を経ているため不明なことが多く、色々と調べている内にそこを走っていた2軸電車を復元したいという願望が強くなっていきました。

鹿部川橋をゆく電車          鹿部停車場構内
鹿部町史写真集から
 ところで私の職業は機械設計技師であり、製図技能については国家試験で厚生労働大臣から1級のお墨付きをもらっています。ただ現役で製図をしていたのは製図板の上でドラフターというパンタグラフみたいな道具を使って鉛筆や特殊なペンで手描きしていた時代で、いわゆるコンピューター製図(CAD)が一般化した頃には私は管理職として働いておりほとんどCAD作図経験がありません。正直なところCADは苦手なので、パソコンのWordExcelの描画機能を使って手描き図面に似た手法で作図するのが得意でした。まず件の鉄道ピクトリアルの写真やデータ等を参考にして1/3にスケールダウンした電車の外観図を作りました。そこに私自身が等身大で乗り込んだ姿を描き込み、運転姿勢や前方の視野が無理なく確保できるか、計画している曲線を通過することができるか、などを確認しました。そのような検討をしたうえで多少の修正を加え、大沼電鉄デ1型電動客車の総組立図が完成しました。あらためてその形状を眺めると、居住性(運転姿勢)重視の一般的な15インチゲージ車両と比べて、極めて実物に近いスタイルバランスが保たれ、またボギー車のショーティよりもはるかにスケール感(実物感)が溢れて「作り鉄」の本領が発揮できそうな手応えを感じました。もう嘱託雇用契約満了を待つこともできず、20143月末で退職を願い出て移住準備にかかりました。

デ1型電動客車の運転姿勢検討図と外観図
 移住のための出発は520日と決めたので退職後ひと月余りしかありません。夏の間だけ北海道で暮らす義父母と私たち夫婦が乗用車に乗ってフェリーで移動することにしました。生活用品は別荘にひと通りあり、神戸の我が家はそのまま残しておくことにしたので引っ越し荷物はトラックを雇うほどはなく、ワゴン車の屋根上や荷室に詰め込んで運びました。とは言え、あまり余裕のないスケジュールの中で職場やご近所の知人、旧知の友人などが次々と送別会を開いてくれるので、新生活の準備に慌ただしい日々を過ごすことになりました。乗用車に積みきれない普段着と愛読書、鉄道作りに必要と思われる道具類を整理仕分けして宅急便で送り出した後、23日の船旅で北海道を目指しました。

事の始まり

  鉄道好きが自己紹介をする時、決まって子供の頃の思い出話から始まります。3歳になった頃、父が3つ違いの兄と一緒にクリスマスプレゼントを買ってくれました。終戦から間もない頃だったので大奮発してくれたのだと思います。兄はブリキ製の電気機関車、私にはセルロイド製の乗用車、どちらもフライホイールが入っていて勢いをつけると「ウーーー」と音を立ててしばらく惰性で走ります。ところが私は乗用車より電気機関車が欲しかったので、駄々をこねて大泣きしている写真がアルバムに残っています。それがきっかけなのか、元々そういうDNAが組み込まれていたのか、以後私は良い子になって父は電車のおもちゃを買ってくれるようになりました。

右側の私は乗用車が気に入らず  「電気機関車が欲しい」と泣いて  我が物にしました
 小学生の頃にはすっかり鉄道好きになっていました。その頃はまだ「鉄っちゃん」はおろか「鉄道マニア」も「鉄道ファン」という言葉も聞きませんでした。電車が好き、汽車が好きな人はいましたが今ほどポピュラーではなく、そういう類の趣味を説明するのに少し困るような時代でした。その小学生は4年生の遠足で神戸市電と山陽電車を乗り継いで別府へ潮干狩りに行きました。往きに乗ったのが最新の2000型で広々とした車内でしたが、私は運転台のすぐ後ろに陣取ってずっと前の線路を見ていました。兵庫駅を出て併用軌道をノロノロと転がっていたのが須磨を過ぎたあたりから速くなり、とんでもないスピードで走り出すのです。それまでに乗った電車ならガタコンガタコンと音がするはずなのに、この新型電車は「ウォーン」という連続音とともに滑るように、そして揺りかごにでも乗っているようにフワフワと心地よく揺れるのでした。後に知ることになるのですが、それはOK台車とWN駆動機構の組み合わせという当時の最新技術のなせる業だったのです。その時、運転台窓を通して見た線路が流れて行く光景はいつまでも忘れることができない強烈な印象として脳裏に残りました。

 中学生になってもやはり好き加減は衰えるどころか、寝ても覚めても電車のことが気になる日々を過ごしていました。ある夜、例の2000型のマスコンとブレーキハンドルを握っている夢を見ました。あの時と同じようにとんでもないスピードで線路が流れて心地よい揺れもそのままでした。ただ車体がやけに小さくて、運転手の私はうつ伏せに寝そべって顔だけを上げるような形で前を見ていました。両腕が車体の側板につかえるかと思うほど窮屈で、それでもマスコンを回したりブレーキをかけたりすることができたのは、狭い寝床から夢の世界への彷徨いだったからでしょう。目覚めたときの感動は言うまでもありません。この時、寝そべってでも乗り込めるような小さな電車があったらいいのになぁ、しかしそれはやっぱり夢でしか味わえない憧れなんだろうなぁ、と思いました。

 高校生の頃、模型を作ったり、近くを走る電車の写真を撮ったり、市電に乗ったり、と鉄道趣味の幅が広がっていきました。通学はバスを使えばドアツードアなのに、わざわざ遠回りして市電に乗っていました。放課後、通学定期の指定電停で降りずに車内で15円の切符を買い、1時間くらいかけて市内を一巡してから帰宅するのが常でした。毎日運転手の所作を観察しているので、一度でいいから電車を運転してみたい、とよく思っていました。高校を卒業したら市電の運転手になろうと真剣に考えていましたが、ちょうどその頃、ご多分に漏れず各地で市電の廃止が本格化し、神戸でも運転手の新規採用がなくなってしまいました。運転手になれないならとりあえず大学へ行こうと考え、そして電車を作る職業も視野に入れて工学部を目指すことにしました。

 大学受験は失敗しましたが、1968年の4月に開業したばかりの神戸高速鉄道で予備校に通うことができ、浪人生活もそれなりに楽しいものになりました。毎日阪急電車や山陽電車の先頭に乗って運転台や線路を眺めたものですが、あの2000型に乗り合わせたりした日には、遠足の思い出と一緒に小さな電車を運転した夢が蘇るのでした。 

山陽電鉄2000型 神戸高速鉄道開業前の兵庫駅前併用軌道上にて

 2度目の挑戦で晴れて神戸大学の学生になった私を待っていたのは、当時全国的な規模で広がっていた大学紛争(私たちは闘争と呼んでいました)でした。校舎はバリケードで封鎖され、当然授業はなくて半年近く自宅待機の日々が続きました。受験勉強から解放されてそんな環境下に置かれたら誰しも趣味に没頭して当然です。鉄道雑誌を読みふけり、受験で封印していた模型作りを始め、同好の士を集めて鉄道研究会を立ち上げました。

 やがて授業は再開され、テストやレポートに追われながらも学生生活を堪能するようになりました。日々の自由時間や長い休暇を存分に生かすことができるのは学生の特権であり、私は真鍮板やボール紙を切り抜いて模型を作ったり、全国の地方私鉄にそのモデルを求めてカメラ行脚をしました。当時はまだまだローカル私鉄が元気に活躍していた頃で、今では見ることができない機械式気動車やトロリーポールをかざした電車、そして軽便鉄道や森林鉄道がいたる所にありました。もちろん蒸気機関車も頑張っていましたが、なぜかあまりそそられることがなかったのは私の最も鉄っちゃんらしからぬ一面であります。

江若鉄道の機械式気動車(1969年三井寺) 

 卒業を控え就職先を決める時期になりました。その頃工学部ではほとんどの学生が過去に就職実績のある企業へ教授の推薦で就職していました。ところが私は、推薦なしで一般公募の国鉄を受験することにしました。それは子供の頃からの夢であった運転手になるためです。関西支社での一次試験に合格し、東京駅までの特別な往復切符が郵送されてきた時はもう「国鉄マン」気取りでした。ところが本社では「輸送の高速化についての評価」という題目で集団討議が課せられ、「国鉄の労使紛争について」の意見を幹部の前で述べさせられました。文系東大生の饒舌な主張に圧倒されて何も語ることのないまま討議は打ち切られ、うっかり労働組合を擁護するホンネの意見を述べて苦笑いされながら面接試験は終わりました。就職先が決まらなかった私は大学院に進学することにしました。

  進学を決意したもう一つの理由は、学割を使って長い休暇を満喫することでした。修士課程の2年目を迎えていつまでも学生生活を続けるわけにもいかず、といって国鉄で散々な目にあっていたので鉄道会社へ就職して運転手になる道は少し嫌気がさしていました。そこで鉄道車両製造会社で電車を作る仕事がしたいと思うようになりました。教授にそんな話をすると「卒業生が川崎重工の車両設計部にいるから頼んでみてやる。」と言ってくれました。数日後「話はついたよ。ただ人事部門を無視して強引に採用するわけにはいかないから、とにかく試験を受けて採用が決まったら引き抜いてくれるそうだ。」とのこと。そういう職業に就けば構内の一隅で運転のマネ事くらいはできるかと心躍らせて晴れの日を待ちました。

川崎重工の採用面接では戦前の川崎車両製品の美について熱弁を揮ったのですが
川崎車両カタログから

 1975年の3月に配属先の通知が届きましたが、そこには「兵庫工場車両事業部」ではなく「明石工場ジェットエンジン事業部」と書いてあるではありませんか。あわてて教授に確認したら「彼はそのことをすっかり忘れていたそうだ、申し訳ない。」と謝られました。この時、私はもう電車の運転手にはなれないし、電車を作る仕事もできない、これからどんな人生が展開するのか、とやや自暴自棄になっていました。
 「車両事業部設計部」への転勤希望を毎年提出しましたがことごとく却下され、結局夢が叶わぬまま年月が流れて行きました。その間、軍事産業に携わることへの罪悪感や待遇に関する不満から川崎重工を退職し、新しい勤務先ではいっさい鉄道に関わることなく忙しく働きながら、家族や友人と一緒に釣りやスキーといった他の趣味に余暇を費やすようになりました。いつのまにか、小さな電車に乗り込んで運転した夢のことも忘れていました