2020/10/08

事の始まり

  鉄道好きが自己紹介をする時、決まって子供の頃の思い出話から始まります。3歳になった頃、父が3つ違いの兄と一緒にクリスマスプレゼントを買ってくれました。終戦から間もない頃だったので大奮発してくれたのだと思います。兄はブリキ製の電気機関車、私にはセルロイド製の乗用車、どちらもフライホイールが入っていて勢いをつけると「ウーーー」と音を立ててしばらく惰性で走ります。ところが私は乗用車より電気機関車が欲しかったので、駄々をこねて大泣きしている写真がアルバムに残っています。それがきっかけなのか、元々そういうDNAが組み込まれていたのか、以後私は良い子になって父は電車のおもちゃを買ってくれるようになりました。

右側の私は乗用車が気に入らず  「電気機関車が欲しい」と泣いて  我が物にしました
 小学生の頃にはすっかり鉄道好きになっていました。その頃はまだ「鉄っちゃん」はおろか「鉄道マニア」も「鉄道ファン」という言葉も聞きませんでした。電車が好き、汽車が好きな人はいましたが今ほどポピュラーではなく、そういう類の趣味を説明するのに少し困るような時代でした。その小学生は4年生の遠足で神戸市電と山陽電車を乗り継いで別府へ潮干狩りに行きました。往きに乗ったのが最新の2000型で広々とした車内でしたが、私は運転台のすぐ後ろに陣取ってずっと前の線路を見ていました。兵庫駅を出て併用軌道をノロノロと転がっていたのが須磨を過ぎたあたりから速くなり、とんでもないスピードで走り出すのです。それまでに乗った電車ならガタコンガタコンと音がするはずなのに、この新型電車は「ウォーン」という連続音とともに滑るように、そして揺りかごにでも乗っているようにフワフワと心地よく揺れるのでした。後に知ることになるのですが、それはOK台車とWN駆動機構の組み合わせという当時の最新技術のなせる業だったのです。その時、運転台窓を通して見た線路が流れて行く光景はいつまでも忘れることができない強烈な印象として脳裏に残りました。

 中学生になってもやはり好き加減は衰えるどころか、寝ても覚めても電車のことが気になる日々を過ごしていました。ある夜、例の2000型のマスコンとブレーキハンドルを握っている夢を見ました。あの時と同じようにとんでもないスピードで線路が流れて心地よい揺れもそのままでした。ただ車体がやけに小さくて、運転手の私はうつ伏せに寝そべって顔だけを上げるような形で前を見ていました。両腕が車体の側板につかえるかと思うほど窮屈で、それでもマスコンを回したりブレーキをかけたりすることができたのは、狭い寝床から夢の世界への彷徨いだったからでしょう。目覚めたときの感動は言うまでもありません。この時、寝そべってでも乗り込めるような小さな電車があったらいいのになぁ、しかしそれはやっぱり夢でしか味わえない憧れなんだろうなぁ、と思いました。

 高校生の頃、模型を作ったり、近くを走る電車の写真を撮ったり、市電に乗ったり、と鉄道趣味の幅が広がっていきました。通学はバスを使えばドアツードアなのに、わざわざ遠回りして市電に乗っていました。放課後、通学定期の指定電停で降りずに車内で15円の切符を買い、1時間くらいかけて市内を一巡してから帰宅するのが常でした。毎日運転手の所作を観察しているので、一度でいいから電車を運転してみたい、とよく思っていました。高校を卒業したら市電の運転手になろうと真剣に考えていましたが、ちょうどその頃、ご多分に漏れず各地で市電の廃止が本格化し、神戸でも運転手の新規採用がなくなってしまいました。運転手になれないならとりあえず大学へ行こうと考え、そして電車を作る職業も視野に入れて工学部を目指すことにしました。

 大学受験は失敗しましたが、1968年の4月に開業したばかりの神戸高速鉄道で予備校に通うことができ、浪人生活もそれなりに楽しいものになりました。毎日阪急電車や山陽電車の先頭に乗って運転台や線路を眺めたものですが、あの2000型に乗り合わせたりした日には、遠足の思い出と一緒に小さな電車を運転した夢が蘇るのでした。 

山陽電鉄2000型 神戸高速鉄道開業前の兵庫駅前併用軌道上にて

 2度目の挑戦で晴れて神戸大学の学生になった私を待っていたのは、当時全国的な規模で広がっていた大学紛争(私たちは闘争と呼んでいました)でした。校舎はバリケードで封鎖され、当然授業はなくて半年近く自宅待機の日々が続きました。受験勉強から解放されてそんな環境下に置かれたら誰しも趣味に没頭して当然です。鉄道雑誌を読みふけり、受験で封印していた模型作りを始め、同好の士を集めて鉄道研究会を立ち上げました。

 やがて授業は再開され、テストやレポートに追われながらも学生生活を堪能するようになりました。日々の自由時間や長い休暇を存分に生かすことができるのは学生の特権であり、私は真鍮板やボール紙を切り抜いて模型を作ったり、全国の地方私鉄にそのモデルを求めてカメラ行脚をしました。当時はまだまだローカル私鉄が元気に活躍していた頃で、今では見ることができない機械式気動車やトロリーポールをかざした電車、そして軽便鉄道や森林鉄道がいたる所にありました。もちろん蒸気機関車も頑張っていましたが、なぜかあまりそそられることがなかったのは私の最も鉄っちゃんらしからぬ一面であります。

江若鉄道の機械式気動車(1969年三井寺) 

 卒業を控え就職先を決める時期になりました。その頃工学部ではほとんどの学生が過去に就職実績のある企業へ教授の推薦で就職していました。ところが私は、推薦なしで一般公募の国鉄を受験することにしました。それは子供の頃からの夢であった運転手になるためです。関西支社での一次試験に合格し、東京駅までの特別な往復切符が郵送されてきた時はもう「国鉄マン」気取りでした。ところが本社では「輸送の高速化についての評価」という題目で集団討議が課せられ、「国鉄の労使紛争について」の意見を幹部の前で述べさせられました。文系東大生の饒舌な主張に圧倒されて何も語ることのないまま討議は打ち切られ、うっかり労働組合を擁護するホンネの意見を述べて苦笑いされながら面接試験は終わりました。就職先が決まらなかった私は大学院に進学することにしました。

  進学を決意したもう一つの理由は、学割を使って長い休暇を満喫することでした。修士課程の2年目を迎えていつまでも学生生活を続けるわけにもいかず、といって国鉄で散々な目にあっていたので鉄道会社へ就職して運転手になる道は少し嫌気がさしていました。そこで鉄道車両製造会社で電車を作る仕事がしたいと思うようになりました。教授にそんな話をすると「卒業生が川崎重工の車両設計部にいるから頼んでみてやる。」と言ってくれました。数日後「話はついたよ。ただ人事部門を無視して強引に採用するわけにはいかないから、とにかく試験を受けて採用が決まったら引き抜いてくれるそうだ。」とのこと。そういう職業に就けば構内の一隅で運転のマネ事くらいはできるかと心躍らせて晴れの日を待ちました。

川崎重工の採用面接では戦前の川崎車両製品の美について熱弁を揮ったのですが
川崎車両カタログから

 1975年の3月に配属先の通知が届きましたが、そこには「兵庫工場車両事業部」ではなく「明石工場ジェットエンジン事業部」と書いてあるではありませんか。あわてて教授に確認したら「彼はそのことをすっかり忘れていたそうだ、申し訳ない。」と謝られました。この時、私はもう電車の運転手にはなれないし、電車を作る仕事もできない、これからどんな人生が展開するのか、とやや自暴自棄になっていました。
 「車両事業部設計部」への転勤希望を毎年提出しましたがことごとく却下され、結局夢が叶わぬまま年月が流れて行きました。その間、軍事産業に携わることへの罪悪感や待遇に関する不満から川崎重工を退職し、新しい勤務先ではいっさい鉄道に関わることなく忙しく働きながら、家族や友人と一緒に釣りやスキーといった他の趣味に余暇を費やすようになりました。いつのまにか、小さな電車に乗り込んで運転した夢のことも忘れていました

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