2021/09/12

直接制御器各部の構造 後編

  3.前後切替軸

現合で作った切替機構
 モーターの電極切り替えは模型のパワーパックに使用するのと同じトグルスイッチで行います。基本的に約100Vの直流電圧が加わった状態で切り替えるわけではないので運転中の電流負荷(0.5~2A)で言えば模型とほとんど差がありません。ただし、インターロックがかかっていないので運転中に誤って切り替えるとスイッチのみならず他にも悪影響があることは充分留意しておく必要があります。トグルスイッチのレバーはそれ自身がスナップアクションになっているので、外力で強制的に動かすと無理が生じます。そのためなんらかの緩衝機構が必要であると同時に、前後切替軸も「前進」「中立」「後進」位置で自立的に停止することを考えなければなりません。トグルスイッチのレバーにちょうど被さるサイズのバネを強引に押し込み、その先端付近を切替軸でオーバーラン気味に動かすようにします。切替ハンドルを動かしてトグルスイッチを切り替える機構はうまく図面が描けません。現品を見ながら手仕事で鉄板を切出して万力で曲げ、穴をあけて部品を当てがい、動きを見て調整していく方式です。早い話が現物合わせ、あまり賢い方法ではないものの仕方ありません。

金属製と見まがう切替ハンドル
 実物の前後切替ハンドルは本来中立位置で抜き取れる構造になっています。これは部外者による操作を防止するためのロックアウト機能であり、鹿部電鉄では必要がないので差し込んだ状態の外形を模した形状にします。それにしても複雑な形なので、木材から彫刻製作するしかなく図面化はしましたが、寸法より見た目の形状優先で加工することにします。サーフェーサーを塗っては削り、磨きを繰り返し、最後はメタリックのラッカースプレーを吹いて完成です。芸術品のような風合いで、漆塗りで金箔仕上げにしたいくらいです。

 重厚感あふれる金属製主ハンドルと比べると、見た目は遜色ありませんが切り替えのために動かしてみると木製ハンドルはどうしても軽薄な感じが免れません。「ガチャン」ではなく「プチッ」と動きます。

 4.天板

 天板の鋳物を作るわけにはいかないので木材を加工して最後にメタリック塗装します。仮に鋳物にするとしても木型が必要になるので、その段階までの手間は同じです。図面に従って楕円形に切り出した板の上縁外周にR加工し、外周から10mmの部分を残して2mmの深さで彫り込むことにします。彫刻刀、ノミ、カッターナイフなどを使ってノッチの目盛りと「OFF」「FWD」「REV」など浮き彫りにする部分を残します。削り過ぎてもパテで修正ができるので神経を使う作業ではありませんが、根気は必要です。ハンドルの左側にメーカーや形式名が入るスペースがあるので大沼電鉄の社紋を浮き彫りにします。

文字を浮き彫りに

 金色のラッカースプレーは適度な艶がありながら磨いた金属みたいにピカピカではなく、真鍮製の主ハンドルによく似た質感になり、全く違和感がありません。何も言わなければ金属製の加工品と木製の塗装部分の見分けがつかない仕上がりになりました。見た人はそれをどうやって手に入れたか質問します。「作った」と聞いて驚き、「木製」と聞いて目を疑います。

 5.カバー

 天板の楕円形(長短2種半径の円弧の組み合わせ)に合わせて曲げた薄板を取り付け、手前側はメンテナンスのために取り外せるようにします(実物と同じ)。曲げ作業は鉄工所にロール加工を依頼します。曲率は図面に指示した通りにならないことが予測されるので、後でも修正ができるようにt1のアルミ製(材質A5052)にします。木製の天板と底板の側面に鬼目ナットを打ち込んでビスで固定しますが、現物合わせになるので穴の加工は最後にします。

 完成後に吹き付け塗装した結果きれいに仕上がりました。アルミ表面への塗料の食いつきを懸念していましたが、乗降時に誤って蹴とばしても剥がれるようなことはないようです。

 6.制御器の組立配線と取付

 各機構部品を取り付けてから配線をします。線ごとに色分けした実体配線図を作り、各部品は端子台を経由して接続作業をするわけですが、どうしても意のままにならない部分があって結局配線図は役立たず、記録の用も果たさないままお蔵入りになってしまいました。それでも経路ごとに線材を結束して、旧制御器よりは複雑な割にまとまった配線になったと満足しています。

お蔵入りの色付き配線図 この通りの配線はできなかった

 完成した制御器をデ1の前に置いて記念写真を撮影しました。なかなかの出来ばえです。見た目はチョッと小さいけれど立派な憧れの直接制御器です。「ガチャガチャ」とハンドルを回すと、いやがうえにも早く電車に取り付けて運転してみたいという思いに駆られました。

完成記念写真

 旧制御器を取り外してすぐに交換できるよう電源ケーブルやコネクターを事前に準備していた割に、寸法が合わなかったり取り付け予定場所の不都合があったり、あげくは長雨で作業ができなかったり(基本的に屋外作業です)、結局ひと月近くも運休の日が続きました。そして抜けるような秋空のもといよいよ試運転にこぎつけました。

 ハンドルを回すと我がデ1はゆっくりと動きだし、ノッチを進めるにしたがって加速していきます。別に以前より速く走るわけでもないのに、心なしか宙に浮いているような、そう初めて山陽電車の2000型に乗って揺られたときのような感激が込み上げて来ました。「ガチャガチャガチャ」っと一気にハンドルを戻すとモーター音が変わって惰行に移り、ブレーキをかけると静かに停止します。


2021/09/06

直接制御器各部の構造 前編

  まずは完成した直接制御器の外観をご覧ください。実物の1/2の大きさですが、良く出来ていると思いませんか。

完成した直接制御器

 図面検討した各部は、部品図を作成して外注加工するものと自身で彫刻や仕上げ加工をするもの、通販で購入するものからなります。

直接制御器内部構造図

 1.主ハンドル軸とノッチ機構

 制御器の機構部はt3.2の亜鉛メッキ鋼板を、長ネジを介して3枚配置し、そこに主ハンドル軸、カム軸、前後切替軸の軸受けユニットを取り付けます。実物の制御器のノッチ機構は各種あるようですが、製作容易=構造簡易=動作確実と考えて、主ハンドル軸上のVノッチを加工した円板にローラーを押し付ける構造にしました。バネの押し付け圧力は作ってみてから調整します。主ハンドル軸は大きな力や衝撃が加わってもズレが生じないようハンドルやVノッチ円板とはキーを介して固定します。

 その主ハンドルは20mm厚の黄銅板から削り出すことにし、軸が嵌る穴やネジ加工があるので荒削りも含めて鉄工所に外注します。ハンドルの下に別体の円形ベースを取り付けます。この部品が軸と嵌合し、やはりキー溝加工を施して手荒な取り扱いでも緩んだり抜けたりしないように強固に固定します。

機械加工が終わったハンドル
 これら制御器内部の機構部品は、従来からお世話になっていた函館市内の柴田工作所に発注しようと考えていました。ところが感染症流行で世間全体が休眠状態の中、テレワークもママならぬ鉄工所が果たして操業しているのか心配して訪問したところ、意外にも好況で忙しいとのこと。図面を手渡して「本業の合間仕事で結構なので出来るだけお安く!」と無理をお願いし、次の買い物で出かけたついでに部品を受け取ることにしました。
 フライス盤による加工の終わった主ハンドルはグラインダーとヤスリで角を落とし、Rに仕上げます。こちらはパテで修正ができないので少しずつ削りながら真円になっているか形状を確認し、最後はサンドペーパーで磨きます。主ハンドルは直接制御器の見せ場であり、我ながら見事な仕上がりになったと自慢の一品です。

 ノッチの動作状態はバネ圧を含めて試作一発目の出来上がりで丁度いい感じになったと思います。Vノッチ円板には通常の操作範囲を超えてハンドルが回らないようにストッパー(ボルト頭)が取り付けてあり、思いっきりハンドルを回してもガッチリ止まります。指先でロータリースイッチを遠慮がちに回していた時とは違ってとても実感的です。

 2.カム軸

左側がカム軸とマイクロスイッチ
 実物の制御器のようにカムで接点を押し付ける構造にすると相当の駆動力が必要になることが想像されますし、接点の構造設計や信頼性に自信が持てませんでした。市販のマイクロスイッチ(ローラー付きリミットスイッチ)を使用することで構造を簡便にし、駆動力も低減できると考えました。電動機負荷125V2.5Aの開閉ができるOmron製マイクロスイッチをネットで探し出し、予定しているコントローラーの寸法にきっちり収まることを確認して設計を進めました。必要な駆動力が小さいので歯車の代わりにタイミングベルトで主ハンドル軸と連動するようにします。マイクロスイッチを押すカムは「シャフトホルダー」という市販部品で、相手のローラー動作範囲に合わせてフランジ部分を削り取って使用します。マイクロスイッチは5個使用し、Off位置からノッチ1の中間で界磁がOnになり、ノッチ1の手前で電機子と抵抗3個の直列接続回路が形成され、その後順に抵抗を短絡してノッチ4でバッテリー電圧が電機子に加わるようにカム軸を調整します。つまり、力行は4段ということになり、従来の制御器より1段増えます。実際の抵抗値は完成後の運転で試行錯誤して決めます。なお、ロータリースイッチで制御していた時はタップ間で一旦無電圧になるため、ツマミの位置によっては加速が止まってしまうことがありましたが、この機構ではそういう懸念はありません。
スイッチタイミングチャート

旧回路(左)と新回路(右) 抵抗と界磁の接続が異なる

 カム軸が回ってスイッチが順に動く様子は鉄道博物館で見た制御器の動作と似ていて、こんなものが手元にあるのかと思うとゾクゾクします。

2021/08/29

直接制御器の設計

旧制御器
  これまでデ1の加速制御には、モータの電機子と直列に接続した抵抗器をロータリースイッチで順々に減らしていく方法を採っていました。スイッチのツマミに木製のハンドルを接着してそれらしくしていましたが全体的に華奢で、ハンドル操作は力加減に気を遣う必要がありました。加えて巻線のインダクタンス(電磁誘導)が大きいために、実際には見えませんが接点でアークが発生しているようで、溶着して制御不能になるのではないかと不安を抱えていました。ここはひとつ見た目も頑丈で力任せに操作しても壊れず、電気的にも安定した制御器に作り直したいと考えました。つまり、構造の強化と接点容量の向上を目指し、大沼電鉄のデ1もおそらく装備していたであろう直接制御器を模したコントローラーを設計製作することにしました。

直接制御器
横浜市電保存館
 ひと昔前の路面電車はほとんど直接制御器を備えていました。運転手が左手で大きなハンドルを回す様子をご存知の方もいらっしゃるかと思います。連結運転する電車が小型のマスコンで各車の床下にある制御器を遠隔操作するのに対して、運転手が600Vの電圧のかかったタップを切り替えるので直接制御器と呼ばれます。仕切りのない運転台からノッチを刻む音や「ボン」というスパーク音、エアブレーキの「シューッ」、車掌の合図の「チンチン」、すぐ足元から「ポーッ」と警笛が聞こえる、なんと懐かしい世界でしょう。これぞ子供の頃に憧れた市電を運転している光景です。交通が輻輳する街中で自動車に進路を譲るまいと、運転手は制御器とブレーキを間断なく操作して加減速していました。「ガチャガチャ、プッシューン、ガチャ、ガッチャーン、プシュプシュッ」大沼電鉄でそういうシーンが見られたかどうかわかりませんが、直接制御器はそんな荒っぽい扱いに耐えるものでなければなりません。

 ネットで「直接制御器」と画像検索すると、楕円形の天板に弓型の柄のハンドル、前後切替器がついた写真が出てきます。メーカーは多数あるようですが、いずれもほとんど同じ形状であることからイングリッシュエレクトリック社製のライセンスもしくはデッドコピーと思われます。天板とハンドルは黄銅(もしくは砲金)鋳物製で、胴の部分は天板に合わせて湾曲した鋼板のカバーが取り付けられています。現役で働いている直接制御器もありますが、採寸するには各地の常設市電博物館が便利です。札幌、仙台、横浜、京都の他、申し込めば見学可能な保存車両もあります。主要寸法の測定と真上や真横からの写真を撮れば三面図が作れるので、デ1に取り付けられる大きさにスケールダウンします。電車は実物の1/3ですが、制御器のスケールは1/2にしました。先に取り付けてあるブレーキとのバランスもあり、できるだけ大きい方が運転も実感的になります。その大きさの中に主ハンドルの軸やノッチ機構、カム軸、前後切替軸などを配置し、余ったスペースに端子台と抵抗器を取り付けることにします。抵抗器の発熱量は実物に比べると桁違いに小さく、通風のない制御器のなかに入れても問題がないことは実証済みです。

図面化した直接制御器外形

 制御器全体の内部機器配置検討と並行して個々の部分の詳細構造を設計し、寸法や購入部品の決定をします。相互の位置関係に影響が出る場合はフィードバックして修正します。

2021/07/24

鹿部電気鉄道はひとまず完成

 

ある秋の日の電車
 「電車の運転手になりたい」という子供の頃からの夢を実現するために、自宅の庭に線路を敷き、自らが乗り込んで運転できる電車を完成させました。年金がもらえる年齢に近づいて退職し、北海道に移住して毎日趣味に没頭する生活もかれこれ6年目に入っていました。元々多趣味の私は、作り鉄以外に釣り、スキー、カヌー、テニス、ジョギングや小旅行などにも時間を割いていたし、ご近所づきあいも大切にしたいと思っていました。ストレスまみれの現実からの唯一の逃避先が趣味であった頃と比べると、なんとも幸せな時間を過ごしているものだとつくづく感じます。だからここまで来るのに5年以上を要したことに対して、能率が悪かったとかもっと電車作りに集中すべきだったとかと思ったことはありません。

日頃のアクティビティ

 長年の夢が実現してしまって燃え尽き症候群に陥るという話はよく聞きますが、夢は無限に広がって行くものです。線路を延長して家を周回するエンドレスに築堤や橋梁、駅舎や北海道らしいシーナリーを作りたい。天気や冬の寒さを気にしなくていい自分専用の物置兼作業小屋がほしい、それはレンガ造りで薪ストーブがいい。実物通りの運転が出来るようなコントローラーと空気圧ブレーキを装備しよう。低電圧で架線集電を実現したい。と言ってこれらが出来上がるまでは死にたくない、と思い詰めたものではありません。若い頃のように思いのままに動く身体ではなくなってしまったし、頻繁なもの忘れを始め思考能力の低下は甚だしいばかり。健康診断を受けてアチコチの臓器の異常な数値に不安がよぎるのも恒例になりました。お迎えが来た時にどこまで出来ているかを楽しみにしたいと思います。

 電車作りができない冬を前に次はどの夢を実現するかじっくり考える時間ができました。

 線路の最終的な敷設計画に近づけるためには、まず分岐器を作らなければなりません。せっかくなので、できる限り実物に近い形状を再現したいものです。「15インチでポイントを自作するには2ヶ月はかかる。」と聞いていましたが、その程度の時間でできるなら自分の力だけで作ることに挑戦しようと思いました。着手するまでに各部の構造と加工方法をじっくり検討することにしました。

 分岐器はもちろん、その先を延長するにはレールを曲げる工具を入手する必要があります。町内の鉄工所になぜかレールベンダーと思しき鉄の塊が放置されているのを見つけ、「廃棄する時は声を掛けて。」と頼んでいたのにいつの間にかなくなってしまっていました。となると、油圧式パイプベンダーを購入して改造するか、自家製レールベンダーを設計製作するしかありません。

 電車を運転していてずっと気になっていたことがあります。ロータリースイッチでモーターと直列に接続した抵抗を順々に短絡して加速しているのですが、巻線のインダクタンス(電磁誘導)が大きいためにアークで接点が溶着する恐れがあったためです。接点容量の大きいスイッチに変更するとともに、運転台に鎮座するクラシックな直接制御器を模したコントローラーを作ることにしました。

 これらの検討・計画は並行して進め、図面を描いたり購入部品の選択をしたり、加工部品の見積りを取って具体化していきますが、まずは直接制御器の製作から始めることにしました。この冬、新型コロナウィルスによる感染症流行の兆候が忍び寄って来ていました。

年賀状に使った画像

2021/07/22

待避線(余談・雑談) 停車場と停留場

  電車や列車に乗り降りする場所のことを一般的には駅と呼びますが、停車場とか停留場(停留所)とも言います。石川啄木の「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聞きにゆく」はあまりに有名な歌です。ここで「ていしゃば」と詠んだのは上野駅だと言われていますが、今どき新幹線も発着する一大ターミナルと停車場はなんとなく別物のような気がします。駅のことを何と呼ぼうと勝手ですが、ことこれが法律で定義されるとちょっと面倒になってきます。

 1919年(大正8年)制定の地方鉄道建設規定では、「旅客又ハ荷物ヲ取扱フ為列車ヲ停止スル箇所ニシテ転轍器ノ設備アルモノヲ停車場ト謂ヒ其ノ設備ナキモノヲ停留場ト謂フ」としています。平ったく解釈すると、大きな駅=停車場、プラットフォームだけの駅=停留場ということになります。下の青写真は国立公文書館に保存されていた大沼電鉄鹿部停留場の平面図です。鹿部駅は終点で、多数の転轍機が設置されているので、上記の規程によれば「停留場」ではなく「停車場」と記されるべきです。また他の文書で「鹿部停車場」と書かれている書類に対して鉄道省の係官が「停車場ト記載アルヲ鹿部停留場ト改ムルコト」とクレームをつけていたことがわかりました。鹿部駅はなぜ停留場なのかと疑問を抱いていました。

鹿部駅平面図

 実は、大沼電鉄は1921年(大正10年)制定の軌道法という、いわゆる路面電車に適用される法律に基いて建設・営業されていたのです。当時の鉄道は、法律によって軌道(市電・路面電車)、地方鉄道(私鉄)、国有鉄道に分類されていました(正式な鉄道の他に軽便鉄道、簡易軌道というのもありました)。大沼電鉄は大沼付近に道路上の併用軌道があったことや山間部の曲線半径を小さくする必要があったため、地方鉄道ではなく軌道として特許(免許)申請したものと思われます。軌道法には停車場の規定はなく、すべて停留場として扱われます。そのため軌道法に基づいた大沼電鉄の駅は、設備の大小にかかわらず終端駅も含めてどれも停留場とすることが正しい解釈になります。

駒見駅側線敷設申請書
 1945年(昭和20年)6月に国鉄函館本線の森大沼間に勾配を緩和した砂原周りの線が開通したのに伴い、戦時下でもあり路線が重複する大沼電鉄は廃止されました。戦後住民の請願により19481月新銚子口鹿部温泉間に縮小して再び線路を復活敷設する際には、地方鉄道として免許取得しています。大沼付近の併用軌道区間がなくなったことと急曲線の特例申請によって認可されたようです。これに伴って終端駅である新銚子口、鹿部温泉および行き違い設備のある中間駅は停車場となりました。19491月駒見停留場の側線敷設申請に対し、運輸省(旧鉄道省)から「設備を停留場から停車場に変更すべきものならずや」と意見されています。大沼電鉄と鉄道省(運輸省)との間で交わされた各種申請書類で国立公文書館に保存されているものに目を通していると、すべてお上に伺いを立ててからでないと物事が進まない官僚主義の煩わしさが伝わって来ます。

 以上は法律に基いた堅苦しい話で、一般的に列車に乗り降りする場所は「駅」と呼べば事足りるし、バスや路面電車の場合は停留所という呼び方が似合います。「ていしゃば」という響きがしっくりする雰囲気の駅はもう見られませんね。訛りを懐かしむ声も聞かれなくなってしまいました。

2021/07/14

YouTubeデビュー

  文化祭の翌日、またご近所さんの力を借りて電車を撤収しました。仕上げ作業、衣装や展示パネルの製作に忙しい日々が続いていたので、何とも言えぬ脱力感に浸りながら日常が戻ってきたような気分でくつろいでいました。

 数日後突然チャイムが鳴って玄関に出ると、狩勝エコトロッコ鉄道の増田さんが立っておられました。2020121日投稿の「車両製作への歩み」で書いたように、15インチ鉄道建設に向けて私の背中を押してくださった方の一人です。廃線利用トロッコの運営支援や記念施設での展示品(模型)製作で道南方面へ来たついでに足を延ばしたとのとこと。「道に迷ったけど庭に電車が見えたので来た甲斐がありました。」と喜んでもらえました。こちらもちょうど完成した電車を見てもらうには絶妙のタイミングで、偶然が重なって幸運の再会となりました。メールで電車を製作していることをお知らせはしていたものの、スケールにこだわった「デ1」の完成した姿を見て大変驚かれた様子でした。

 小雨が降る中、電車を運転して写真や動画を撮影してもらいました。増田さんはエコトロッコのみならずNゲージで北海道の車両や風景を再現した動画をYouTubeに投稿していて、チャンネル登録が数万件、特に踏切模型の動画は視聴数千万回というその方面では著名なユーチューバーでもあります。私もいずれ鹿部電鉄の動画を公開しようと思っていた矢先だったので、編集や投稿の方法を聞いていたところ、「単発投稿よりもチャンネル登録数の大きいところから投稿することで注目度が高くなる。」と教えてもらいました。そしてその日撮影された「【大沼電鉄デ1型電動客車】15インチゲージ走る」がTokatihideからアップされました。おかげで視聴回数は順調に増え、鹿部電鉄もいよいよ世間に知られる存在になりました。

 機会あるごとに知り合いや鹿部電鉄建設でお世話になった方々にYouTubeデビューをメールで伝えました。一方でご近所さんが「YouTube見たよ。」と声をかけてくださることもあります。また一度動画が公開されると連鎖的にネットで拡散されるようで、GoogleYahooで「大沼 鹿部 電鉄」などと画像・動画検索すると徐々にタイトル画面が現れる頻度が高くなってきました。その後私自身も前面展望動画を始めとして投稿するようになりました。

2021/07/05

鹿部町文化祭出展 当日編

  文化祭前日の午後、デ1と展示用線路を積載した2台の軽トラックに追随してキャラバン隊が中央公民館に到着しました。展示スペースとなるバルコニーは一段高くなっていて荷台からは水平移動で定位置に設置することができます。人夫の数が多いので方向転換や横移動も難なくこなせました。車止めを噛ませてこの日の作業は終了です。

搬入作業

 113日文化の日、晴れの特異日とされていますが北海道ではすでに冬の始まり、年によっては雪が降ることもあります。この日雪や雨こそ降らなかったものの朝からどんよりと曇っていました。展示場所は公民館の北側の角で、陽当たりは期待できないどころか時折建物を巻いて風が吹き込んで来ます。パネルを吊るしたパーテイションを保管してある屋内から運び出し、「大沼電鉄デ1型電動客車」の看板や「大沼電鉄の写真や昔話をご存知の方はお申し出ください。」という表示を並べ、鉄道員の詰襟に着替えて準備万端整いました。この衣装は黒(濃紺)の背広の襟を起こし、胸に自家製金ボタン、袖には金帯を縫い付けて昭和の駅長を連想させる出で立ちにしてあります。10年来背広を着たことがなかったのでもっと大胆にリフォームしようかとも思ったのですが、礼服以外の唯一の正装なので切った貼ったはやめて安全ピンを使ってそれらしくまとめました。

所定の展示場所で記念写真撮影

町長と町議(観光協会会長)に大沼電鉄の説明
 が、お客さんの姿はまばらです。開場から1時間ほどして幼稚園児のお遊戯が舞台で始まる頃になると家族連れがホール目指してやって来ますが、みんな電車の前は素通りです。見たこともない電車より我が子の晴れ舞台のほうが気になるみたいです。そのうちにご近所や役場の顔見知りがちらほら立ち寄ってくれるようになりました。前評判では、黒山の人だかりになるとか、新聞の取材もあるとか、言われていたので名刺を何十枚も印刷して用意していたのに空振りです。それでもわざわざ見に来てくれた人たちがいて、「懐かしい」「この色の電車に乗ったことがある」「親から聞いたことある」「プログラムを見て気になった」と話してくれたり、「なんで地元出身じゃね人がこんなことを調べてくれるのさ?」と聞く人もいて少しはアピールになったかと納得しました。

 風はますます強くなって体感温度は真冬並みになりましたが、ダウンジャケットを羽織ってはせっかくの衣装が意味をなさないので足踏みをしながら耐えていたところ、主催者側で足元にストーブを用意してくれました。来訪者も途絶えて来たので予定より早めに店仕舞いし、私にとって初めて出展者になった鹿部の文化祭は終わりました。

鹿部町広報誌2019年12月号に掲載された出展の様子