2021/08/29

直接制御器の設計

旧制御器
  これまでデ1の加速制御には、モータの電機子と直列に接続した抵抗器をロータリースイッチで順々に減らしていく方法を採っていました。スイッチのツマミに木製のハンドルを接着してそれらしくしていましたが全体的に華奢で、ハンドル操作は力加減に気を遣う必要がありました。加えて巻線のインダクタンス(電磁誘導)が大きいために、実際には見えませんが接点でアークが発生しているようで、溶着して制御不能になるのではないかと不安を抱えていました。ここはひとつ見た目も頑丈で力任せに操作しても壊れず、電気的にも安定した制御器に作り直したいと考えました。つまり、構造の強化と接点容量の向上を目指し、大沼電鉄のデ1もおそらく装備していたであろう直接制御器を模したコントローラーを設計製作することにしました。

直接制御器
横浜市電保存館
 ひと昔前の路面電車はほとんど直接制御器を備えていました。運転手が左手で大きなハンドルを回す様子をご存知の方もいらっしゃるかと思います。連結運転する電車が小型のマスコンで各車の床下にある制御器を遠隔操作するのに対して、運転手が600Vの電圧のかかったタップを切り替えるので直接制御器と呼ばれます。仕切りのない運転台からノッチを刻む音や「ボン」というスパーク音、エアブレーキの「シューッ」、車掌の合図の「チンチン」、すぐ足元から「ポーッ」と警笛が聞こえる、なんと懐かしい世界でしょう。これぞ子供の頃に憧れた市電を運転している光景です。交通が輻輳する街中で自動車に進路を譲るまいと、運転手は制御器とブレーキを間断なく操作して加減速していました。「ガチャガチャ、プッシューン、ガチャ、ガッチャーン、プシュプシュッ」大沼電鉄でそういうシーンが見られたかどうかわかりませんが、直接制御器はそんな荒っぽい扱いに耐えるものでなければなりません。

 ネットで「直接制御器」と画像検索すると、楕円形の天板に弓型の柄のハンドル、前後切替器がついた写真が出てきます。メーカーは多数あるようですが、いずれもほとんど同じ形状であることからイングリッシュエレクトリック社製のライセンスもしくはデッドコピーと思われます。天板とハンドルは黄銅(もしくは砲金)鋳物製で、胴の部分は天板に合わせて湾曲した鋼板のカバーが取り付けられています。現役で働いている直接制御器もありますが、採寸するには各地の常設市電博物館が便利です。札幌、仙台、横浜、京都の他、申し込めば見学可能な保存車両もあります。主要寸法の測定と真上や真横からの写真を撮れば三面図が作れるので、デ1に取り付けられる大きさにスケールダウンします。電車は実物の1/3ですが、制御器のスケールは1/2にしました。先に取り付けてあるブレーキとのバランスもあり、できるだけ大きい方が運転も実感的になります。その大きさの中に主ハンドルの軸やノッチ機構、カム軸、前後切替軸などを配置し、余ったスペースに端子台と抵抗器を取り付けることにします。抵抗器の発熱量は実物に比べると桁違いに小さく、通風のない制御器のなかに入れても問題がないことは実証済みです。

図面化した直接制御器外形

 制御器全体の内部機器配置検討と並行して個々の部分の詳細構造を設計し、寸法や購入部品の決定をします。相互の位置関係に影響が出る場合はフィードバックして修正します。

2021/07/24

鹿部電気鉄道はひとまず完成

 

ある秋の日の電車
 「電車の運転手になりたい」という子供の頃からの夢を実現するために、自宅の庭に線路を敷き、自らが乗り込んで運転できる電車を完成させました。年金がもらえる年齢に近づいて退職し、北海道に移住して毎日趣味に没頭する生活もかれこれ6年目に入っていました。元々多趣味の私は、作り鉄以外に釣り、スキー、カヌー、テニス、ジョギングや小旅行などにも時間を割いていたし、ご近所づきあいも大切にしたいと思っていました。ストレスまみれの現実からの唯一の逃避先が趣味であった頃と比べると、なんとも幸せな時間を過ごしているものだとつくづく感じます。だからここまで来るのに5年以上を要したことに対して、能率が悪かったとかもっと電車作りに集中すべきだったとかと思ったことはありません。

日頃のアクティビティ

 長年の夢が実現してしまって燃え尽き症候群に陥るという話はよく聞きますが、夢は無限に広がって行くものです。線路を延長して家を周回するエンドレスに築堤や橋梁、駅舎や北海道らしいシーナリーを作りたい。天気や冬の寒さを気にしなくていい自分専用の物置兼作業小屋がほしい、それはレンガ造りで薪ストーブがいい。実物通りの運転が出来るようなコントローラーと空気圧ブレーキを装備しよう。低電圧で架線集電を実現したい。と言ってこれらが出来上がるまでは死にたくない、と思い詰めたものではありません。若い頃のように思いのままに動く身体ではなくなってしまったし、頻繁なもの忘れを始め思考能力の低下は甚だしいばかり。健康診断を受けてアチコチの臓器の異常な数値に不安がよぎるのも恒例になりました。お迎えが来た時にどこまで出来ているかを楽しみにしたいと思います。

 電車作りができない冬を前に次はどの夢を実現するかじっくり考える時間ができました。

 線路の最終的な敷設計画に近づけるためには、まず分岐器を作らなければなりません。せっかくなので、できる限り実物に近い形状を再現したいものです。「15インチでポイントを自作するには2ヶ月はかかる。」と聞いていましたが、その程度の時間でできるなら自分の力だけで作ることに挑戦しようと思いました。着手するまでに各部の構造と加工方法をじっくり検討することにしました。

 分岐器はもちろん、その先を延長するにはレールを曲げる工具を入手する必要があります。町内の鉄工所になぜかレールベンダーと思しき鉄の塊が放置されているのを見つけ、「廃棄する時は声を掛けて。」と頼んでいたのにいつの間にかなくなってしまっていました。となると、油圧式パイプベンダーを購入して改造するか、自家製レールベンダーを設計製作するしかありません。

 電車を運転していてずっと気になっていたことがあります。ロータリースイッチでモーターと直列に接続した抵抗を順々に短絡して加速しているのですが、巻線のインダクタンス(電磁誘導)が大きいためにアークで接点が溶着する恐れがあったためです。接点容量の大きいスイッチに変更するとともに、運転台に鎮座するクラシックな直接制御器を模したコントローラーを作ることにしました。

 これらの検討・計画は並行して進め、図面を描いたり購入部品の選択をしたり、加工部品の見積りを取って具体化していきますが、まずは直接制御器の製作から始めることにしました。この冬、新型コロナウィルスによる感染症流行の兆候が忍び寄って来ていました。

年賀状に使った画像

2021/07/22

待避線(余談・雑談) 停車場と停留場

  電車や列車に乗り降りする場所のことを一般的には駅と呼びますが、停車場とか停留場(停留所)とも言います。石川啄木の「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聞きにゆく」はあまりに有名な歌です。ここで「ていしゃば」と詠んだのは上野駅だと言われていますが、今どき新幹線も発着する一大ターミナルと停車場はなんとなく別物のような気がします。駅のことを何と呼ぼうと勝手ですが、ことこれが法律で定義されるとちょっと面倒になってきます。

 1919年(大正8年)制定の地方鉄道建設規定では、「旅客又ハ荷物ヲ取扱フ為列車ヲ停止スル箇所ニシテ転轍器ノ設備アルモノヲ停車場ト謂ヒ其ノ設備ナキモノヲ停留場ト謂フ」としています。平ったく解釈すると、大きな駅=停車場、プラットフォームだけの駅=停留場ということになります。下の青写真は国立公文書館に保存されていた大沼電鉄鹿部停留場の平面図です。鹿部駅は終点で、多数の転轍機が設置されているので、上記の規程によれば「停留場」ではなく「停車場」と記されるべきです。また他の文書で「鹿部停車場」と書かれている書類に対して鉄道省の係官が「停車場ト記載アルヲ鹿部停留場ト改ムルコト」とクレームをつけていたことがわかりました。鹿部駅はなぜ停留場なのかと疑問を抱いていました。

鹿部駅平面図

 実は、大沼電鉄は1921年(大正10年)制定の軌道法という、いわゆる路面電車に適用される法律に基いて建設・営業されていたのです。当時の鉄道は、法律によって軌道(市電・路面電車)、地方鉄道(私鉄)、国有鉄道に分類されていました(正式な鉄道の他に軽便鉄道、簡易軌道というのもありました)。大沼電鉄は大沼付近に道路上の併用軌道があったことや山間部の曲線半径を小さくする必要があったため、地方鉄道ではなく軌道として特許(免許)申請したものと思われます。軌道法には停車場の規定はなく、すべて停留場として扱われます。そのため軌道法に基づいた大沼電鉄の駅は、設備の大小にかかわらず終端駅も含めてどれも停留場とすることが正しい解釈になります。

駒見駅側線敷設申請書
 1945年(昭和20年)6月に国鉄函館本線の森大沼間に勾配を緩和した砂原周りの線が開通したのに伴い、戦時下でもあり路線が重複する大沼電鉄は廃止されました。戦後住民の請願により19481月新銚子口鹿部温泉間に縮小して再び線路を復活敷設する際には、地方鉄道として免許取得しています。大沼付近の併用軌道区間がなくなったことと急曲線の特例申請によって認可されたようです。これに伴って終端駅である新銚子口、鹿部温泉および行き違い設備のある中間駅は停車場となりました。19491月駒見停留場の側線敷設申請に対し、運輸省(旧鉄道省)から「設備を停留場から停車場に変更すべきものならずや」と意見されています。大沼電鉄と鉄道省(運輸省)との間で交わされた各種申請書類で国立公文書館に保存されているものに目を通していると、すべてお上に伺いを立ててからでないと物事が進まない官僚主義の煩わしさが伝わって来ます。

 以上は法律に基いた堅苦しい話で、一般的に列車に乗り降りする場所は「駅」と呼べば事足りるし、バスや路面電車の場合は停留所という呼び方が似合います。「ていしゃば」という響きがしっくりする雰囲気の駅はもう見られませんね。訛りを懐かしむ声も聞かれなくなってしまいました。

2021/07/14

YouTubeデビュー

  文化祭の翌日、またご近所さんの力を借りて電車を撤収しました。仕上げ作業、衣装や展示パネルの製作に忙しい日々が続いていたので、何とも言えぬ脱力感に浸りながら日常が戻ってきたような気分でくつろいでいました。

 数日後突然チャイムが鳴って玄関に出ると、狩勝エコトロッコ鉄道の増田さんが立っておられました。2020121日投稿の「車両製作への歩み」で書いたように、15インチ鉄道建設に向けて私の背中を押してくださった方の一人です。廃線利用トロッコの運営支援や記念施設での展示品(模型)製作で道南方面へ来たついでに足を延ばしたとのとこと。「道に迷ったけど庭に電車が見えたので来た甲斐がありました。」と喜んでもらえました。こちらもちょうど完成した電車を見てもらうには絶妙のタイミングで、偶然が重なって幸運の再会となりました。メールで電車を製作していることをお知らせはしていたものの、スケールにこだわった「デ1」の完成した姿を見て大変驚かれた様子でした。

 小雨が降る中、電車を運転して写真や動画を撮影してもらいました。増田さんはエコトロッコのみならずNゲージで北海道の車両や風景を再現した動画をYouTubeに投稿していて、チャンネル登録が数万件、特に踏切模型の動画は視聴数千万回というその方面では著名なユーチューバーでもあります。私もいずれ鹿部電鉄の動画を公開しようと思っていた矢先だったので、編集や投稿の方法を聞いていたところ、「単発投稿よりもチャンネル登録数の大きいところから投稿することで注目度が高くなる。」と教えてもらいました。そしてその日撮影された「【大沼電鉄デ1型電動客車】15インチゲージ走る」がTokatihideからアップされました。おかげで視聴回数は順調に増え、鹿部電鉄もいよいよ世間に知られる存在になりました。

 機会あるごとに知り合いや鹿部電鉄建設でお世話になった方々にYouTubeデビューをメールで伝えました。一方でご近所さんが「YouTube見たよ。」と声をかけてくださることもあります。また一度動画が公開されると連鎖的にネットで拡散されるようで、GoogleYahooで「大沼 鹿部 電鉄」などと画像・動画検索すると徐々にタイトル画面が現れる頻度が高くなってきました。その後私自身も前面展望動画を始めとして投稿するようになりました。

2021/07/05

鹿部町文化祭出展 当日編

  文化祭前日の午後、デ1と展示用線路を積載した2台の軽トラックに追随してキャラバン隊が中央公民館に到着しました。展示スペースとなるバルコニーは一段高くなっていて荷台からは水平移動で定位置に設置することができます。人夫の数が多いので方向転換や横移動も難なくこなせました。車止めを噛ませてこの日の作業は終了です。

搬入作業

 113日文化の日、晴れの特異日とされていますが北海道ではすでに冬の始まり、年によっては雪が降ることもあります。この日雪や雨こそ降らなかったものの朝からどんよりと曇っていました。展示場所は公民館の北側の角で、陽当たりは期待できないどころか時折建物を巻いて風が吹き込んで来ます。パネルを吊るしたパーテイションを保管してある屋内から運び出し、「大沼電鉄デ1型電動客車」の看板や「大沼電鉄の写真や昔話をご存知の方はお申し出ください。」という表示を並べ、鉄道員の詰襟に着替えて準備万端整いました。この衣装は黒(濃紺)の背広の襟を起こし、胸に自家製金ボタン、袖には金帯を縫い付けて昭和の駅長を連想させる出で立ちにしてあります。10年来背広を着たことがなかったのでもっと大胆にリフォームしようかとも思ったのですが、礼服以外の唯一の正装なので切った貼ったはやめて安全ピンを使ってそれらしくまとめました。

所定の展示場所で記念写真撮影

町長と町議(観光協会会長)に大沼電鉄の説明
 が、お客さんの姿はまばらです。開場から1時間ほどして幼稚園児のお遊戯が舞台で始まる頃になると家族連れがホール目指してやって来ますが、みんな電車の前は素通りです。見たこともない電車より我が子の晴れ舞台のほうが気になるみたいです。そのうちにご近所や役場の顔見知りがちらほら立ち寄ってくれるようになりました。前評判では、黒山の人だかりになるとか、新聞の取材もあるとか、言われていたので名刺を何十枚も印刷して用意していたのに空振りです。それでもわざわざ見に来てくれた人たちがいて、「懐かしい」「この色の電車に乗ったことがある」「親から聞いたことある」「プログラムを見て気になった」と話してくれたり、「なんで地元出身じゃね人がこんなことを調べてくれるのさ?」と聞く人もいて少しはアピールになったかと納得しました。

 風はますます強くなって体感温度は真冬並みになりましたが、ダウンジャケットを羽織ってはせっかくの衣装が意味をなさないので足踏みをしながら耐えていたところ、主催者側で足元にストーブを用意してくれました。来訪者も途絶えて来たので予定より早めに店仕舞いし、私にとって初めて出展者になった鹿部の文化祭は終わりました。

鹿部町広報誌2019年12月号に掲載された出展の様子


2021/06/29

鹿部町文化祭出展 準備編

  例年113日文化の日に「鹿部町文化祭」が開催され、中央公民館で作品展示と舞台での演技披露があります。庭の線路で大沼電鉄の再現を目指すようになってから、いつか文化祭で電車の運転展示をしたいと思っていました。一昨年も昨年も春先に「今年は電車を展示できるかなぁ」と思いながら、秋風が吹くころには「やっぱり無理」とあきらめていました。でも「今年はできそうや」と自信が持てたので、出展申込書を提出しました。後日、教育委員会の担当者が搬入方法や展示場所の検討をするため来訪されました。屋内に搬入すると床を傷める可能性がある一方で、駐車場は出店があるので玄関脇のバルコニー軒下に静態設置することになりました。「子供が喜ぶでしょうね。」「今年の文化祭の目玉になりますね。」と前評判も上々です。

 人様に見ていただくからには電車を完成状態に仕上げなくてはなりません。車番「1」を各妻板と側板に計8ヶ所、社紋を両側板に2ヶ所白色ペイントで書き込みます。大沼電鉄の株券のコピーが入手できたので、そこに描かれていた社紋を写し取り、古い写真から大きさを類推して型紙を作り、マスキングテープを切り抜いて車体に貼り付けました。「大」の字、温泉、レールを組み合わせた社紋を知る人は少なく、歴史再現価値は大きいと思います。側面窓下にサボをぶら下げました。ひと昔前まではポピュラーだった紺色の琺瑯製を想定し、窓ガラスに使った透明塩ビ板に、青地に白字で「部鹿‐園公沼大」と右書きした紙を貼ってあります。

大沼電鉄の株券       と       社紋  

 電車展示の目的は2つあります。まず他の展示と同じく、趣味の紹介とその成果としての作品を来場者に見てもらうこと。もう一つは、地元鹿部でちょうど90年前に開業した大沼電鉄という鉄道があったという事実を広く知ってもらうこと。そのために、電車とともにパネル展示をすることにしました。パネルは約80cm四方の台紙にプリントした写真を貼り付けたものを3種類準備しました。6年の歳月をかけて自宅庭に建設してきた鹿部電鉄の歩み、大沼電鉄の歴史と概要説明(町史や資料からの転載)、大沼電鉄に関する研究成果(主要駅の線路配置等)、です。実はパネルの台紙は、電車の仮屋根として使っていた発泡スチロール板で、あちこち傷ついていたのでありあわせの壁紙を貼ってそれらしくしました。

展示用パネル

運搬手伝い要員への説明手順書
 静態展示するにもやはりレールは必要でしょうし、会場への運搬にも鉄輪のままトラックに載せるわけにはいきません。運搬手順を考えて5.5mの定尺から4m1.5mの枕木付き線路を製作しました。枕木は70mm×70mmとして底から犬釘の先が出ないようにしてあります。電車の重量を実際に計ったことはありませんが計画では約160kg、クレーンなどは使えないので人力でトラックの荷台に積み込まなければなりません。担い棒を台車の下に入れて前と後ろを少しずつ持ち上げてまず1.5mの仮線路に電車を載せ替えます。4mの線路の一端をその前に置いて他端をトラックの荷台に掛け、人力で押して勾配を登らせます。その間に1.5mの方をトラックの荷台に上げて待ち受け、ロープでがんじがらめに荷台固定、と言う作戦です。軽トラックだと後ろに数十cmオーバーハングになりますが、赤い布で目印を付けて法定範囲内に収まります。4mの線路を同時に運搬するためにもう一台軽トラックが必要になります。人夫は運転手と私を含めて合計6人、ご近所さんに協力を求めたところ快く引き受けてくれ、7km先の会場まで運搬してもらえることになりました。

ボール紙製駅長帽
 文化祭での展示が決まってから準備していたものがもう一つあります。昭和の電車を展示するからには説明員(製作者)はそれなりの格好を整えなければならないと思い、鉄道員の帽子を探しました。ネットでは現在使用されているJRや私鉄の制服や制帽が出品されていますが、昭和初期のものとなるとなかなか見つからず、あってもひどく傷んでいたりとてつもない値段がついていたりします。そこで鹿部電鉄の常套手段として自分で作ることにしました。昭和の駅長さんの写真からそれらしい形を決め、ボール紙を切り抜いて立体的に貼り合わせ、黒、赤、金色の布を被せて仕上げます。国鉄の帽章は桐と動輪ですが、大沼電鉄ではどうだったのかわかりませんので、ボール紙を切り抜いて作った社章を金色に塗装してそれらしくくっ付けました。帽子として気に入る形になるまで何度も作り直し、結構な時間をつぎ込んだおかげでとても良く出来た駅長帽になりました。ついでに詰襟があれば申し分ないので函館の制服専門店に行き、尋ねたところ「今どき詰襟の学生服は販売していませんし、取り寄せるにしても(老人の)体形に合うものはありません。」と断られてしまいました。こうなったら鹿部電鉄の常套手段を使うしかありません。こちらは文化祭当日の写真をご覧ください。
出展を待つデ1


2021/06/23

窓枠と乗降扉

  知り合いや道行く人から「とうとう出来上がりましたねぇ。」と声を掛けられることが多くなりました。もちろん製作過程を知っている人が、以前の無塗装や仮屋根の車体を思い浮かべると確かに完成度は高くなったように見えます。16番模型では屋根上のディテール取り付けが終わったらほぼ完成と言えますが、車体構造の違いからこの電車にはまだ窓枠や扉がついていません。作り鉄がペーパーで車体を作る時、窓枠や扉の凹み具合はもっともこだわる部分です。紙の厚さを微妙に変えたり、2段窓の上下に段差をつけたり、カッターで切り抜く際にテーパー状にしたり、サーフェーサーでの仕上げにも気を遣います。この工程を最後まで残していた理由もそういうところにあります。だから前照灯やポールがついた時も自分では「完成に近づいた」とは思わず、あえて「ここからが勝負」と気合を入れなおしました。

窓枠の構造
 窓枠の製作には薄合板から切り抜くのが簡単で、ジグソーを使えば隅のR加工も問題なくできそうです。そこでまた家具工房「わ」を訪ねて相談に乗ってもらいました。結論は、上下左右の枠を段付き加工して接着組立し、一段凹んだところに窓ガラス(透明塩ビ板)をはめ込むということになりました。お抱え工房ならではの贅沢加工作業です。窓のサイズと構造が側面と妻面、扉で異なるので、何種類もの図面を描き、長沢さんに付きっきりで寸法指示を出しながら加工してもらいました。

 出来上がった窓枠素材の検品をして反っているものを除けたところ、数が足りなくなってしまいました。最初に車体の側板や妻板を加工した時は、それほど不良品は出なかったのですが、今回使った材料は乾燥が不十分だったのか加工して日数が経つと許容できない程に変形するものが多数ありました。延長線路の枕木用として購入したアカシア材を1年以上庭で保管していたところ、覆っていたブルーシートが破れて雨が浸み込み、乾燥したつもりが逆に水漬けになっていたようです。追加加工や修正をしたうえで必要数を揃えて組み立て再スタートです。

窓の仕上がり
 窓枠の段部に接着剤を塗布し、クリップで一昼夜固定固着させます。さらに上の二隅にR加工したコーナー材を接着して窓枠完成です。コーナー材はホールソーでφ30の穴をあけてから四方を切出すと作れます。2mm厚の透明塩ビ板から「窓ガラス」を切出し、周囲6ヶ所に木ネジ用の皿モミ加工をし、塗装した窓枠の3mmの凹みにはめ込んで固定します。塩ビ板の平面度は心配でしたが問題ありません。この窓枠を側板の内側からウィンドウシルのテーパー面に乗るように木ネジで固定します。当面内装はしないつもりなので木ネジや窓枠の端面などは丸出し、車内からはスキマを通して外の光も透けていますが、外部からは良く出来た造作に見えます。

 扉は「日」の字形に組んだ枠の上半分に同様の窓枠を取り付け、下半分はベニヤ板を貼り付けています。この扉を開閉構造にするために、スライドレールという机の引出しなどに使う3段式の伸縮機構を利用します。扉の開口は370mmですが、戸袋部の制約などがあって最大ストロークは約350mmとなります。辛うじて私が出入りできるギリギリの幅で、後に乗降をしやすくするためのカラクリを図ります(「鹿部電鉄の秘密」というYouTubeで公開https://www.youtube.com/watch?v=3ZsPVNWHY0E)


扉の下部と車体台枠および扉の上部と構体枠をスライドレールで結合して扉が前後に動くようにします。これを取り付ける際に側板を一旦取り外すのですが、上下のスライドレールを完全に平行にしてスムーズに動くように調整してから側板を再度取り付けると、構体枠が歪んで扉が動きません。4ヶ所とも完全調整することはあきらめました。運転のために乗降するのは1ヶ所だけだからです。扉を取り付けるために側板を外した状態で写真を撮りました、どこかの私鉄にデト〇〇と称するこんな電車があったように思います。

鹿部電鉄デト1
白く光っているのがスライドレール

 あと車番や社紋の書き込みやらディテールの取り付けなどが残っていますが、これでやっとデ1型電車がほぼ完成したという区切りになりました。

名刺裏写真
電車の脇に立ち、三脚を使って記念写真を撮影しました。電車との位置関係を変えて何枚か撮り、名刺の裏に印刷しました。名刺と言ってもビジネスに使う場面はありませんので、くだけた感じで初対面の方に「毎日こんなことして遊んでますねん。」と自己紹介します。表は「鹿部電気鉄道」です。