2025/06/23

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その5

 ガラクタ整理から帰って来て10日以上経ちました。留守の間庭に生い茂った草の刈り払いや破れたカバーの下でほぼ雨ざらし状態だったキハの乾燥、さらにカヌー部、渓流釣部、テニス部の例会参加と休む暇なしの日が続き、なかなかお宝を鑑賞する余裕を見つけることができませんでした。あっそうそう、神戸を発つ前日に押入れの奥からスライドビュアーが見つかったので写真と一緒に宅急便で鹿部に送ったのでした。何百枚もあるスライドの中から一枚を取り出し、セットしてスクリーンを覗いてみると、 、 、全面にホコリを被ったような黒いまだら模様が映っていました。擦っても取れないところを見るとカビか化学変化のようで、他のスライドもほぼ同様の状態もしくは部分的に赤や黄に変色していました。肉眼で見た時は超貴重なフィルムがあると思って感激したのですが、糠喜びでした。暇なときに残りの膨大な数の点検をやりますかっ。

 一方で白黒プリントはあまり変色してなさそうでした。ただ無秩序に束ねてあるので撮影時期や場所が飛び飛びで、記憶と結びつかないものがたくさんありました。人間の(いや私の)記憶なんか実に曖昧であると思い知った次第です。「キハ40000参考写真その3」(2025/2/20)で「江若の浜大津構内には1両の気動車も見当たりませんでした」と書いていますが、乗車したキハ52はハフ2を牽いているし、その前か後かにキニ11を撮影しているではありませんか!しかも浜大津だけではなく石山坂本線の錦織車庫で「びわこ号」を撮影し、その前にも叡山線に立ち寄ってポール三昧を楽しんでいた証拠が残っていました。こんな時代があったンですよ。

 加古川では「チョッと残念な写真」(2024/10/7)に「このキハ06を撮影した記憶はなく、『なんで撮っていなかったンだろう?』と悔しく思っています」とヌケヌケ書いています。「ほな、この写真は誰が撮ったンや?」そう言うと夏休みに早起きして重連を撮影したような気がします。同じ頃撮影したキハユニ153も珍しい存在ですが、仕分け業務をしていないときは郵便室が解放されていて、私はそこに乗車したという貴重な経験をしています。


 この他にもめくっていたらキリがなくなるので、1970年頃に関東に足を延ばした際の写真をチョイ出ししておきます。

2025/06/07

待避線(余談雑談) お宝発見

  先日来神戸の実家でガラクタの整理をしています。築55年の古家を身内が建て替えることになり、鹿部移住の際に引き払った居宅から避難させていた書籍、雑誌、模型、写真などを「廃棄」「売却」「鹿部移送」に分類しています。鉄道関係だけでなく、タンスや衣類、家族アルバム、釣り具に大工道具、考えただけでもため息が出るばかり。神戸に帰ったのは3年ぶりなので、ご近所さんが歓迎会を催してくれたり、たまたま開催中のお祭りに誘われたり、関西在住の鉄研メンバーと鉄談にふけったり、となかなか手が動きません。それでももう出てこないだろうと諦めていた貴重な写真を大量に発掘できたのは大きな成果でした。モノクロ、カラープリントとカラースライドを合わせて大型の衣装ケースにぎっしり一杯。貧乏学生のスライドは画質より枚数を優先してほとんどがハーフサイズでしたので、老眼では「なんとなく見覚えがある」程度の判定しかできません。スライドビュアーかスキャナーを買って鹿部の冬の楽しみにしようと考えています。

昭和40年代の写真

 お宝の例としては、加古川線のキハ06、走行中の頚城鉄道ホジ3、サンフランシスコのケーブルカー、LRT、BART、各地の私鉄旧型電車気動車。さらに機械式気動車の運転台機器配置メモを見つけたときは感動しました。

レトロ雑誌 マニアックですね

 この作業の目途が立たないと鹿部には帰れない。とはいえ鹿部のキハも待ってくれているだろうし、渓流釣りやカヌー遊びに心が揺れます。雑誌類と模型の箱詰めは終わっており、古い鉄道模型趣味誌を丸ごと引き取ってくれそうな鉄っちゃんのツテが見つかったので返事を待っているところです。今回の作業でケリが付かなければ秋にもう一度最終決戦を予定しなければなりません(たぶんそうなるでしょう)。Wi-Fi環境が窮屈なので報告はこれくらいにしておきます。

こちらもマニアックなOmゲージ(22.5mm₋1/45) Rhätische Bahn

2025/05/27

待避線(余談雑談) 続地域貢献の話

  前回の投稿「駅の改修」のきっかけとなった「鹿部っ子教室」の報告です。昨年9月21日の余談雑談で、私が町内の小学生に講話をすることになって鹿部電鉄を建設するに至った経緯を説明したことを書きました。当初予定されていた見学は住宅地での熊の目撃情報があったために延期されていましたが、危険性が遠のいたと判断されてこの度の実施となりました。

上:大沼電鉄の説明 下:トの手押し体験 ダイワハウス撮影
 参加者は23人、引率補助の中学生やご近所のボランティア、主催の教育委員会やリゾートデベロッパーである大和ハウスのスタッフ合わせて40人以上が一堂に会してイベントが開催されました。小学生は3年生から6年生までが4班に分かれて、バードカービング、家具工房、鹿部電鉄の3か所を巡り、スタンプを集めます。

 鹿部電鉄ではまず、100年近く前に大沼から鹿部まで鉄道があったこと、電車は今あるホームセンターの駐車場を横切り、コンビニの裏手を通り、郵便局の前で川を渡って、バス車庫の近くにあった終点の鹿部駅まで走っていたこと、集電するためにポールが付いていること、サボの文字は右から左に書かれていること、などを説明してからデ1を運転しました。曰く「電車が鹿部の町の中を走っているのを想像しながら見てくださいねー。」 次に転轍機の役割の説明に続いて操作体験をします。最後はみんなが乗ったトを交代で1人が押すという実験をしました。子供の指1本で4、5人が乗った貨車を動かすことができ、動き出したら手を放してもそのまま走る、という「鉄道は少ないエネルギーで多くの人や貨物を運ぶことができるエコな乗り物」を体感してもらいました。ほとんどの子供がJRや市電に乗った経験がないのが現実なので、「『今日、鉄道はいいな』と思った人は、今度函館に行くときJRで家族が向かい合わせの席に座ってオヤツやお弁当を食べながらおしゃべりしてはどうでしょう?」と語りかけて終わりました。


模造硬券 よくできています
 万が一を考えて動力運転での乗車を避けたので不満が出るかと心配したのですが、手押し乗車体験が好評で「最高に楽しかった!」と言ってくれました。スタンプを押す際に、ボール紙にパソコンで印刷した硬券の復刻切符を1枚ずつ手渡しました。都会でも今どきは切符を見たことがない子供がいるとかで反応が不安でしたが、スタンプ台帳に貼り付けたり大事にポケットに仕舞い込んだりして想定外に喜んでくれたのは驚きでした。事故なく終われたことは何よりの成果で、帰りのバスを見送った後ドッと疲れが出ました。

2025/05/24

駅の改修

改修前の駅プラットホーム
段差や傾きの様子が見えます

         Googleストリートビュー
 昨年9月21日投稿の「地域貢献の話」で書いた通り、春になって「鹿部っ子教室」で子供たちが鹿部電鉄の見学に来ることが決まりましたので、崩れかけたプラットホームの土台であるコンクリートブロックとめくれ上がった敷石の改修をすることにしました。5月24日(土)の実施日まで日数はあったのですが、春はサークル活動のイベントやその他の準備作業が目白押し、渓流釣りや山菜採りシーズンも始まるのでなかなか着手できません。いや着手はしたけど進展がなかったというのが正しいでしょう。駅を作った時から10年の時を経て自身の体が年老いて重いブロックを持ち上げるにもテキパキと進まないことをあらためて思い知りました。実はこのブロックは地面に置いただけでモルタル固定していなかったため、雨水の浸透や冬季の霜柱によって少しずつ移動、変形していたのでした。過去に積み直したことがあり、いずれ固定する必要があることは認識していたものの、左官仕事の経験がないので道具もありませんでした。

とりあえずは改修に着手
 なにはともあれ現状のブロックを崩し、さらにジェット水で洗浄して準備は完了。YouTubeでモルタルの扱いを勉強してからホームセンターでバケツやコテ、水糸を購入しました。プロの手捌きを見ると誰でも簡単にできそうだったので試しに少しだけセメントを練ってブロックに塗り付けてみましたが、見るとするのは大違い、戦意喪失してさてどうしたものかと中断を余儀なくされてしまいました。右の写真撮影から下の写真の状態になるまでに約40日が経過して草が茂っています。





老体に鞭打ってブロックにモルタルを塗り付けます
 悩んでいても始まらないのでとにかく見様見真似でそれなりの作業を続け、なんとか期限の2日前に完工することができました。見たところ敷石はきれいに並んでいますが、素人仕事なのでブロック同士がしっかりくっ付いているか全く自信がありません。
  ヘタクソなりにブロック積みを経験して知ったことは次の通りです。何事もやってみないと身には付かない。最初は職人の技を真似するだけでも難しい。上手に、手際よく、見た目も立派に、なんぞは基本をマスターしてからの話。回数(個数)を重ねると上達できることは間違いない。左官仕事は奥が深い。エンドレスを完成させるには裏の低部に橋梁を架けることになりますが、その橋台はブロック積みを計画しています。今回はそのいい練習になりました。
駅改修完了、鹿部っ子教室の開催を待ちます
 「鹿部っ子教室」の様子はあらためて投稿します。

2025/05/15

待避線(余談雑談) 続ゲージの呼称

  日本国内において軌間16.5㎜縮尺1/80をHOゲージと呼ぶことの是非について、私は「どうでもよい」派であると前回の投稿で書きました。その立ち位置についての深掘りはしないつもりですが、なぜ日本でこの16番ゲージがガラパゴス化したのか私なりの推測をしたいと思います。その理由を考えるための切り口は色々あると思うので、ここに書くのはその一断面であるとお考え下さい。

 1872年(明治5年)に初めて鉄道が開通した際のゲージは3’6”( 1067mm)であったことは周知の通りで、その後官営鉄道は全国的にすべてこの軌間で建設されました。これを指示したのはイギリス人技師であるとされていますが、当時のイギリスの鉄道は概ね標準軌(4’8”1/2=1435㎜)であり、3’6”を選択したのにはなんらかの意図があったと思われます。その根拠には諸説あるようですが、当時の国力や地勢が考慮された結果であるとすれば尤もである、と私は考えます。少し時を経て標準軌の私鉄が開業していますが、その車体の大きさは従前とさほど変わりはなく、路面電車として誕生した都市圏の電車の車両限界はむしろ小さいくらいでした。つまり軌間としては2種類(4”6’=1375mmを含めると3種類)あっても車体の大きさはみんな大体同じだったということになります。このお話、新幹線と軽便鉄道は除きます。

左:ドイツ103型電気機関車 右:阪神の881型   いずれも自身撮影
軌間は4’8”1/2(1435㎜)で同じだが車両の大きさがハンパなく異なる

レーティッシェ鉄道Ge6/6II Wikipediaより
 一方海外に目を向ければ、標準軌と言われるだけあって欧米の幹線鉄道の多くは4’8”1/2であり、しかも一般的にプラットホームが低いこともあって車両は見上げるばかりに大きく車内は広々としています。それでも地方に行くと3”6’やメーターゲージ、3”などの鉄道が見られますし、東南アジアでは幹線としてこのような鉄道が敷設されています。これらは軌間に合わせて、標準軌の車両に比べるとひと回り小柄の車体になっています。私の好きな(好きだった)スイスの代表的な私鉄レーティッシェ鉄道(RhB)はメーターゲージで、山岳部を高速走行するためにED級の重連やEF級の電気機関車が使われていました。こんな機関車が何両もの客車を従え、雄大な景観を背にグングン急こう配を上って行くわけですが、時刻表などでは「ナローゲージ(Schmal Spur)」と表記されています。

 つまり日本では軌間にかかわらず車両はほぼ同じ大きさであるのに対して、世界的に見れば軌間に応じて車両サイズが変わるのが一般的であると言えます。そういう視点では、日本の国鉄(JR)はやはりナローゲージに属するのが妥当ではないかと思うのです。ところが、「阪急や近鉄や京急もナローゲージに入れてしまうのか」、「せっかく16.5㎜という便利なレールがあるのに」・・・その他いろんな意見が入り乱れた結果、16番ゲージと言う妥協の産物が出来上がったと思われます。

 その背景には、日本の鉄っちゃんの多くが海外の鉄道に興味を示さないことがあります。あまり接する機会がない、身近な鉄道への愛着が強いが故に他に目が向かない、あるいは恣意的に興味を持たないことなんかもあるようです。悪く言えば島国根性のせいかもしれません。日本型と外国型の模型が同じ線路の上に置かれることは稀で、さらに事情通でなければそれぞれのスケールに違和感を覚えることさえほとんどないでしょう。

「実物の鉄道の線路幅は異なっていても走っている車両の大きさはみんな同じ、模型の線路は(狭軌と標準軌の)どちらにも通用する中間的な幅にしてある、だから仮に外国型の車両を持ってきても同じ線路を走らせることができる。」と多くの日本の模型鉄が思っている(た)ことが、16番ゲージのガラパゴス化を助長した理由ではないかと考えています。私自身が作っていた模型がHOではなく16番というカテゴリーに入るのだということを知ったのは成人してからでしたし、海外の列車に初めて乗車して異次元の鉄道旅に驚きを覚えたのはもっと後のことでした。偉そうに他人のことは言えません。今後は外国の鉄道と接点を持つ人の割合が増えるので、模型の軌間と縮尺の関係に対する考えもますます多様化していくと思います。

2025/04/20

待避線(余談雑談) ゲージの呼称

台湾桃園(台北)空港にあった阿里山鉄道のレプリカ
車体は実物の1/2くらいだがゲージは実寸2’6”かな?
               
2007年頃自身撮影

 作り鉄である私の鉄道の軌間はご存知15インチで、メートル法では381㎜です。車体は約1/3で製作しましたが、この軌間に対する縮尺や名称についての国際規格はないようです。というか私が知る範囲で日本型スケールモデルと言えるのは修善寺虹の郷ロムニー鉄道に保管されているC11ぐらいで、その縮尺が如何ほどなのかもわかりません(詳細はしかるべきサイトを参照ください)。自分では「15インチゲージ」と呼んでおり、このブログのタイトルにもそう書いています。

 鉄道模型の大きさは一般的にポピュラーなものとしてNゲージやHOゲージ、私が幼かった頃は鉄道模型といえばOゲージでした。実際にはそのほかにもいろいろな縮尺や軌間で細分化されています。少し詳しい方ならご承知と思いますが、「○○ゲージ」というのは文字通りの線路幅だけではなく、縮尺も含めた名前なのです。日本国内のHOゲージについてその呼称の是非がずいぶん昔から議論されていて、いまだにネットや書籍等で続けられています。上に挙げたN、HO、Oの各ゲージは国際的に縮尺と軌間が統一されていますが、日本型車両の縮尺1/80はHOゲージの国際標準(規格)である縮尺1/87と合致せずガラパゴス化しています。そのため「HOゲージと呼ぶのは間違い」派と「HOゲージとして定着している」派が対立し、その他に「寝た子を起こすな」派や「12㎜(1/87)」派「13㎜(1/80)」派、「無派閥、無関心」層等に分類されます。私は「どうでもよい」派ですが、過去に作った模型は、対立する両派がともに認める16番(ゲージ)という呼び方を使うことで「問題があることは認識していますよ」と暗に装っています。

 私が「どうでもよい」派である根本的理由は、趣味は自由であるべきだと思うことにあります。自分が作る模型の方向性は当然自分で決める、多様性が尊重される時代なので拘りをもって個性あふれる模型に仕上げる、こうすることで満足感のある趣味を楽しむことができるわけです。ただ大切なことは自分の考えを他者に押し付けないこと、あるいは自分の価値観で他者を批判することがないようにすることです。実は自戒の念を込めて言っているのでありまして、えてしていろいろな作品を目にすると、つい言いたいことを呟いてしまうのが私の癖なのです。さいわい誰の耳にも聞こえない独り言なので棘はありませんが、気づく度に「これはその人の個性、自由な発想なのだ」と言い聞かせて事なきを得ています。1/80を「HOゲージと呼ぶのは間違い」論と「HOゲージとして定着している」論、ご尤もと思う文言と言いすぎじゃないのと感じる部分がそれぞれにあって、余計な口出しをして巻き込まれたくないので「どうでもよい」、と言うのが私の立ち位置です。

 15インチゲージがもっとポピュラーになればいいのに、と常々思っています。鹿部電鉄はこういうポリシーでこんなことに拘って建設していこう、と10年余りにわたって試行錯誤を繰り返してきました。しかし後に続く15インチゲージ鉄道がみんな鹿部電鉄に倣ってほしいなどとは思っていません。ただお互いに「こうしたら上手くいくンじゃないの」とか「こんな失敗をしちゃった」、「ここ拘ってるンだよね」というような会話(ネット交信)ができる相手がたくさんいたらもっと楽しいだろうな、と独り言ちています。

2025/04/04

待避線(余談雑談) 新幹線札幌延伸

2024年から函館地区で運用開始されたキハ150
一部の乗客が車齢30年超の車両を「新型車だ」
と喜んでいる姿を見て複雑な心境になりました。

  先頃、北海道新幹線のトンネル工事の遅れから札幌延伸開業時期が2038年頃にずれ込むとの見解が、国土交通省有識者会議から出されました。これについて全くの個人的感想ですが、「やれやれ」です。新幹線が開業すると原則として並行在来線は第3セクター化され、その存続是非は地元自治体に委ねられる、と言う少数派住民としては承服しがたい政策がまかり通っています。私の家の最寄りである鹿部駅がある函館本線沿線各自治体は、在来線存続に積極的であるとは言えません。仮に貨物輸送確保のために存続したところで、自家用車の運転ができない未成年や高齢者に優しい旅客列車の運行が行われるかどうかわかりません。だから私にとって新幹線開通は「身近な列車との別れ」を意味するわけです。5年後の2030年にそれが訪れるのはなんとも忍び難いが、13年後ならもう生きていないかもしれない、あるいは列車が走らなくなってもどうせ乗れないのだから同じだ、と諦めがつくというものです。

 個人的な観点だけからの話ではなく、もう一つ災い転じて開業遅れが追い風になるのではないかと思われることがあります。函館市長が提唱している新幹線函館乗り入れについて(注)、札幌延伸と同時開業を前提とすると時間的余裕がなかったのでこれまで雑な議論しかされていませんでした。完工までの期間が倍以上になり、検討、計画、建設に十分な時間を費やすことが可能になりました。例えば在来線の片側のみ3線軌条化する(新幹線は単線)としていましたが、複線化の得失についてもあらためて検討ができると思います。分割乗り入れ列車の長さは3両とされていましたが、先頭車の半分以上を占めるカモノハシ形状も時間をかければ定員を増やす方法を考えられるのではないかと思います。例えば札幌側先頭は切妻とは言わないまでも0系復活とか。もう一つ提案です、新青森で分割、併合することにすれば札幌発着列車は新函館に停車する必要がなくなるので時短が可能になります。
上:新函館北斗(右奥)から発車した函館ライナー__  
下:それを追うように車両基地入庫線を下るはやぶさ

 この函館乗り入れ提案に対してJR北海道、道庁は消極姿勢でしたが、札幌で手持ち無沙汰になる人材や財源を函館に向けるだけでなく、在来線の活性化について真剣に取り組む契機にしてほしいものです。

注記 新函館北斗から函館まで在来線を3線軌条化し、東京からの列車を新函館北斗で分割併合して函館まで乗り入れる、また札幌函館間の直通列車も運転するという計画。トンネルや急曲線などがなく、車両基地(地上)への既設出入庫線を利用して在来線に接続できるので、建設費を抑えてフル規格車両の使用が可能。

2025/03/27

待避線(余談雑談) 続パソコン更新

  パソコンを購入してちょうど2週間、自分一人で立ち上げ作業を完遂できるかというと絶対的な自信があったわけではありません。「初めてでもなければネット情報を見ながらなんとかなるンじゃない。」と言ってくれる人はいましたが、実は初めての体験でした。売り場の店員は1年間面倒を見てくれる安心プランを薦め、本体価格と同じくらいの費用だと言います。店から電話でITに詳しいご近所さんに「今からパソコン買うんだけど、行き詰ったら助けてくれる?」と尋ねたら「どうせ暇だし、何でも聞いて。」と言ってくれたので思い切って決断したのでした。

 メーカーの不手際でプロダクトキー(アプリ無償ダウンロード暗証番号)がわからず1日を棒に振ったのと、旧パソコンのデータ読み出しに日数を要した以外は順調でした。まぁ他にもすることがあるのでとんとん拍子というわけにはいきませんが、それなりにパソコンとして機能するところまで一人の力で漕ぎつけることができました。爺さんやるじゃない。と、突然「ストレージが一杯になったので文書を保存できません。」とメッセージが出てそれ以上先に進めなくなってしまいました。

 ここからはMicrosoft社に対する愚痴です。読み続けても面白くありませんのでお断りしておきます。

 Windows11からOneDriveというアプリが搭載されていてデータをパソコンに保存すると、自動的にクラウド領域にも保存されるという仕組みになっています。最初は無料ですが一定容量を超えると課金を促され、自分のパソコンへの保存機能も停止してしまいます。Windows10にもOneDriveは搭載されていましたが、デフォルトはオフでした。そのことをあらかじめ知らされていたら後に続く泥沼に苦しむこともなかった、と怒り心頭に発しています。諸悪の根源と思われたアプリをアンインストールしたら、まともに働いていたメールも固まってもうパソコンではなくただの箱になってしまったのです。Microsoftはネットで、この場合課金して容量を増やすことが唯一の解決方法であるかのような解説を展開していますが、本来はその前にアプリを使用するかどうかの選択肢をユーザーに示すべきであると思います。腹立たしい悪戦苦闘の日々を過ごしながら件のご近所さんに助けを求めたところ、手取り足取り教えてくれて時間はかかりましたが無事復旧に成功することができました。

 メーカーの恣意的な誘導が罪深いことは言うまでもありませんが、見栄を張って全部自分で解決しようとせず、できないことは経験者の力を借りることも穏やかに生きていく術であることを悟りました。

2025/03/20

待避線(余談雑談) パソコン更新

  いよいよパソコンの動作が不安定になって、いつダウンしてしまうかわからない不安に駆られ、急遽函館の家電量販店を回りました。最新高機能品は使い切れないので低価格最優先で選んでいると、ちょうど1年前の型落ちが6万円台(ほぼ7万円)で1台だけ残っているとのこと、近辺に並んでいる新製品の最安値のほぼ半額でした。何か問題があるかと尋ねたら、「動画編集するにはメモリーが小さい」とか「CPUが一つ前のバージョン」とか。15年前のパソコンに比べたら誤差の範囲なので迷わず決定です。

 パッケージを開けてびっくりしたのは、小さな段ボールには製品のほかにセーフティインストラクションがペラ1枚入っているだけ、取説も保証書もありません。電源を入れると立ち上げ手順が画面に出てきて作業を進めるわけですが、WordやExcelをダウンロードするためのプロダクトキー(パスワード)がパッケージに貼り付けてある、と表示されました。探してもそれらしい文字は見つけられないまま丸一日近く無駄な時間が過ぎてから、ネット情報でそれがメーカーのミスであることがわかり、そのサイトからOfficeを無事ダウンロードできました。引き続き旧パソコンから写真やドキュメント、メールを移動する作業を行っていますが、吸い上げ動作に時間がかかるのでいつになったら以前の使い方ができるのかとため息をついています。

 そのあかつきには撮りためてあるこま切れ動画を編集してYouTubeに投稿しようと思っています。ドキュメントコピーの待ち時間を利用して動画編集アプリを試してみました。以前はスマホで撮影した1,2分の動画を読み込むのに30分近くかかっていたのが一瞬で完了、切り継ぎはいとも簡単にできました。ただ、サウンドやキャプション、グラフィック効果などいろんなアレンジができるようになっているようで、どこまで使いこなせるか頭を悩ませそうです。

2025/03/12

キハ屋根の製作準備

3月になると少し春めいてバラストが
見えてきますが、線路脇はまだ雪の壁

  屋外作業が出来ない冬季間は翌春からの作業準備、つまり設計や企画をすることにしていましたが、この冬も例年通り大した成果を残すことはできませんでした。連結器の設計や一部区間へのダミー架線の敷設計画など大風呂敷を広げたものの、待避線(余談雑談)の原稿に書いただけで終わりました。一方、キハの屋根の構造設計と扉部の再設計は超スローペースながら自分の尻を叩いて図面作成に漕ぎつけました。

 屋根の基本的な構造は、カヌーの製作技法を応用して薄杉板を貼り付けた曲面で形成することにしました。ただし、屋根中央部は大きなRの2次元曲面であるためにベニヤ板で省力化を図ります。想定通りに上手くいくかはやってみないとわかりませんが、デ1でダブルルーフの製作実績があるので、妙に自信に満ちています。ただ、わずかな記録しか残っていない大沼電鉄と違って、同じ時代のキハ40000 (41000)は比較にならない程色々な角度からの写真を見ることができるので、実物に似ていない下手な仕上がりは許されません。

岩手開発鉄道のキハ40000 張り下げ屋根のカーブがたまりません p. Classic Freightcar Archiveより C.C.ライセンス

 手元にあるRMライブラリー1「キハ41000とその一族」に詳細な車体断面図が掲載されており、そこに屋根のRが記入されています。1/3にスケールダウンし、屋根を支えるリブおよびそのリブと車体構体を結合固定する屋根枠を設計しました。デ1の屋根Rはワイヤーと鉛筆で大半径コンパスを作ってケガキ線を描き入れましたが、鉛筆の持ち方やワイヤーの引張り加減で随分不正確なものになっていました。そこでコンパスを使わなくても正確なケガキが出来るよう、設計図には円弧上に50mmおきに点を設定し、ピタゴラスの計算でXY座標を記入しました。スケールを使って正確にこれらの点を再現し、それぞれを結べば疑似円弧になるという算段です。

 リブと屋根枠の材料は側板、妻板と同じ桧板です。肩の曲面部に使用するのは杉板ですが、デ1の製作でお世話になったカヌー工房の秋田先生はその後高齢で工房の維持ができなくなり、器具や機械類を全部処分されたため薄杉板の製作を依頼することができなくなってしまいました。5mm厚、50mm幅の杉板の両側縁面は専用の機械で凹凸R加工がされていたので、並べて貼り付けると互いに食い込んで表面をツライチにすることができました。凸Rはカンナやサンドペーパーで削ることができますが、凹Rの加工を自分でやるとなるとその方法を考えなくてはなりません。これは製作に着手するまでの宿題です。

デ1の屋根リブと薄杉板貼り付け状況

 屋根部の設計が終わって、屋外作業が可能な季節なら即加工に取りかかるところですが、外はまだ銀世界ですのでもう少し準備作業を進めます。リブの外形はアーチ状で、ジグソーで切り出すためのケガキ線を描き入れなければなりません。部品図を見ながら7枚の板にそれぞれケガキをするのは面倒だし、不均一になりかねませんので、正確な型紙を作ってなぞるほうがよほど合理的でしょう。ということで暖房の効いたリビングで半日がかりの型紙製作に打ち込みました。虫メガネみたいな超老眼鏡を掛け、震える指でボール紙に0.1mm単位の目印を写し取り、ステンレススケールとカッターナイフでケガキ線のガイドを切り抜きました。とてもじゃないが、こんな作業は7回もできません。

リブ製作用型紙

2025/03/03

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その4

静岡鉄道駿遠線廃止の前年撮影したけど乗車せず
 私が地方私鉄に電車や気動車を追っていた頃(1970~1975年)、旧型気動車はまだ全国各地で働いていました。そのうちの幾つかは軽便鉄道(ナローゲージ)で、懐かしく思い出される光景ではありますが、実際問題として老朽化した車両の乗心地や性能はすでに時代遅れであったことは否めません。そうこうしているうちに廃車や廃線が進み、カメラに収める前に、また乗車が叶わぬ間になくなってしまった車両や鉄道がいくつもあります。



岡山臨港鉄道キハ5001運転中の光景  富田さん撮影
 当時旧型気動車に乗った時は必ず運転台の後からあるいは横から運転機器の配置とその操作方法を観察していました。もちろん電車でも同じ場所から観察するのですが、特に機械式気動車の場合はスロットルレバーやブレーキ弁やペダルの配置が車両ごとに違っているので興味深く眺めると同時にメモ帳に記録していました。それは私が根っからのメカ好きで運転好きだったからです。そのメモ帳は半世紀以上経った今行方不明ですが、今朝何食べたか思い出せないのに昔のことはよく覚えている老人の得意技で、記憶の糸を辿りたいと思います。

 過去の鉄道のことを知ったかぶりして色々とこのブログに書いていますが、実際に見た光景以外に出所の多くは雑誌や書籍、ネットの記述にある公知の事実またはそれらから類推した事柄です。これらは公文書や古文書、内部文書や古老からの聞き取りといった自分自身で調べて得た知見とは言えません。ただし、以下に記す機械式気動車の運転操作機器配置に関する調査は珍しく私が独自の視点で行った記録の一端です。写真はほとんど残っておらずメモもなくして怪しい記憶に頼っているので、どこの鉄道の何型であったかをすべてのタイプについて明言できないのが残念でなりません。記録としては不完全で、間違っていることがあるかもしれませんので、お気付きの方がおられましたら右の「お問い合わせ」または下の「コメント」でお知らせください。

 機械式気動車の運転機器配置については2022年10月4日投稿の「機械式気動車の話」の中で触れています。一部重複しますが、代表的な配置パターンの紹介とそれに纏わる逸話を書きます。その前にお断りしておくことがあります。自動車のアクセルに相当するスロットルはガソリンエンジンの吸入混合気量を加減する弁のことで、ディーゼルエンジンにスロットルは本来ありません。ガソリンエンジンをディーゼルに換装した際に運転操作機器をそのまま流用したために、回転数調整(調速)レバーを従前通り「スロットルレバー」と呼んだのではないかと想像します。あるいは「加速桿」と呼ぶ人がいたかもしれません。当時の取扱説明書にどう書いてあったのか、その種の資料がないか調べましたが見つかりませんでした。かろうじて国鉄の運転室明細図面には「燃料テコ」という文字が見えます。ここでは便宜的に「スロットルレバー」(足踏みの場合は「スロットルペダル」)とします。辞典で「スロットル」は「本来はガソリンエンジンの絞り弁を調整するレバーであるが、出力制御レバー全般を指す」とされ、「航空機、船舶、バイク、刈払機などに使用される」とあります。また床下の変速機を切り替える遠隔操作レバーは「シフトレバー」とします。

私鉄標準型運転機器配置 自身作画
 まず、私鉄の機械式気動車でポピュラーであった機器配置を示します。運転席の左前方に、手前に引くとエンジンの回転数が上昇するスロットルレバーがあり、左手で操作します。右前方にブレーキ弁があり、運転席の右横に抜き差し可能になっているシフトレバーを、右前方床上にあるクラッチペダルを踏んで操作します。ブレーキ弁は多くの場合、自車のみの制御を行う直通式で、昭和の路面電車で見られるような小型で簡便なタイプになっています。とりあえずこの運転機器配置を私鉄標準型と呼ぶことにします。と言うのは、日本車両や川崎車両が江若鉄道や中国鉄道(現津山線・吉備線)、芸備鉄道(現芸備線)、播丹鉄道(現加古川線)向けに納入した私鉄型気動車の完成型がこれに相当するからです。製造時期に関わらず同じ配置のものはこれに含めます。


国鉄型運転機器配置 自身作画
 次は国鉄キハ04やキハ07あるいはその譲渡車の場合です。機関車と同じく左手で操作する自動ブレーキ弁があり、シフトレバーは右手で扱います。クラッチペダルは左足、スロットルペダルは右足で踏みます。機関車の場合は入れ替え作業時に窓から身を乗り出してブレーキ操作するので電車と違って左側にあるのだという話を聞いたことがありました。気動車のブレーキ弁がなぜ左にあるのかずっと疑問に思っていましたが、ある日ふとその答えに気付きました。地方線区に気動車が導入された時、その運転を任されたのは電車運転手ではなく蒸気機関車の機関士ですから、同じ左手で扱うのが自然な成り行きだったのでしょう。(注) 国鉄型のブレーキは連結運転に備えて直通式と自動ブレーキ式が切り替えられるようになっているとの記述がWikipediaにあるように、弁の外形は円筒状で直通式の弁より少し大型になっています。この配置は1954年から1956年(昭和29年から31年)に製造されたレールバスキハ01~03にも受け継がれています。
 注記 この原稿を公開した後で蒸気機関車のブレーキは右手で操作する位置にあることに気付きました。電気機関車やディーゼル機関車は左手操作です。と言うことで「蒸気機関車の操作に合わせたのだろう」という推論は誤りで、この疑問は振り出しに戻りました。

 _小樽市総合博物館キハ031         南部縦貫鉄道キハ101___
 同じレールバスでも南部縦貫鉄道のキハ101,102の場合は上記私鉄型配置に準じているもののクラッチペダルを左足で踏み込むようになっています。数少ない現在に残る機械式気動車なので運転中の動画が投稿されていますが、注目すべきはスロットルレバーを引く前に窓外の景色が動き出すこと、つまりクラッチペダル操作だけで起動し、完全に動力が繋がってからスロットルで加速していることがわかります。よく「マニュアルミッションの自動車と同じ」と解説されることが多いようですが、こういう操作を切れ目なく進める高度なテクニックが必要になります。

 ブログ「地方私鉄1960年代の回想」で遠州鉄道奥山線のキハ1802,1803の写真を見つけたので、管理人のKatsuさんにお願いして引用許諾をいただきました。さすがに元エンジニアだけあって床のペダル迄画角に入れた運転台の完璧な写真です。シフトレバーが運転席の左側にあります。この場合、左手でスロットルレバーが扱えないために、おそらく右手でスロットルとブレーキの両方を操作するようになっていたのでしょう。加速と減速を同時にすることはないので、不可能ではありませんがやりにくい操作だと思います。ところが右足元を見ると国鉄型の如くスロットルペダルがあって、運転席正面のスロットルレバーは固定されているように見えるところから、使い勝手を考慮して改造されたのではないかと想像します。尾小屋鉄道に譲渡されてその後動態保存運転されている動画で確認すると、運転手は両手でシフトレバーとブレーキハンドルを握ったまま加速しているので右足でスロットルペダルを踏んでいるのだと思われます。

遠州鉄道奥山線 左:キハ1802 右:キハ1803 スロットルレバーは使われていない模様
_________________________   地方私鉄1960年代の回想より許可を得て転載

国鉄型に類似した頚城鉄道ホジ3 Wikipediaより
 頚城鉄道のホジ3は見るからに謎に満ちた車両ですが、シフトレバーが運転席の左側にあること以外、機器配置は国鉄型に準じています。つまり左手でブレーキとシフト操作の両方を行わなければなりません。加速中に急ブレーキをかけるような事態が発生した時に多少の影響はあるかもしれない、程度に考えたのでしょう。それよりこの車両が特殊なのは、シフトレバーが抜き差し構造になっていなくて、後位の無人運転席でシフトレバーが勝手に動くという不思議な光景が見られるとのことです。また運転席から前進/後進の切替え操作が出来るようになっておらず、いちいち下車して駆動軸の逆転器を手動で切り替え操作しなければなりません。動態復元されて動画が公開されているので知る人ぞ知る事実になっているようです。

 気動車を導入した各私鉄独自の注文仕様なのかメーカーの都合なのかわかりませんが、後に鉄道会社間で車両譲渡が繰り返されると同じ鉄道でありながら色々なタイプの運転台が混在することになり、運転や保守を担当する者にとってはややこしかったと思います。今やワンハンドルコントローラーしか見たことがない鉄っちゃんが普通にいる時代、スロットルレバーを手前に引けば加速するのは理解できるとして、まさか奥に倒せばブレーキがかかると思ってはいないでしょうね。

2025/02/20

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その3

  最初の投稿「事の始まり」(2020/10/08)で書いた通り、1969年(昭和44年)の春晴れて大学生になった私には半年近く自宅待機の日々が続いていました。昨今の感染症流行による外出自粛と違い、何の憚りもなく遊びまわっていいので気楽な身分でした。その年の11月1日限りで江若鉄道が廃止になるというので、カメラを持って浜大津を目指しました。当時から気動車好きではありましたが、旧型気動車となると加古川線か別府鉄道くらいしか接点がなかったので江若鉄道にもそれほど強い興味があったわけではありません。むしろ京津線のポール集電が翌年廃止されることの方が気になって、浜大津では電車の写真ばかり撮っていました。何しろ運転頻度が全然ちがうし江若の浜大津構内には1両の気動車も見当たりませんでしたから。ずいぶん待ってやっと来たのは元熊延鉄道のキハ51(または52だったか覚えていません)で、塗色が国鉄の交直両用電車(60Hz)と同じであるのに驚きました。その頃は鉄道雑誌のグラビアもほとんどが白黒で、敢えて色に興味がなければ勝手に想像していたからです。浜大津から雄琴温泉まで乗車し、交換した対向列車に乗って帰ってきたのですが、それが同じキハ50の片割れだったのでがっかりでした。今思えば、せめて三井寺下車庫で下車して他の車両の撮影をしておけばよかったのにと悔やまれます。三井寺下-浜大津間はたった600mしか離れていなかったのです。

   京津線のポール電車80型        熊延鉄道時代の江若キハ50型熊本県H.P.より

 そんな出会いの後すぐに江若鉄道は廃止されてしまい、結局まともな写真は残っていません。しかし地方私鉄の撮影行脚を始めてからは熱烈な旧型気動車マニアになり、現役時代を詳しく知らないまま16番模型を作ったり(こういうのはよくあります)、他の私鉄に散らばった仲間の撮影に出かけたりするようになります。翌年の春、鉄研を立ち上げたメンバーと連れ立って撮影旅行に出かけた折に岡山臨港鉄道で早速出会ったのが元江若のキハ12、キニ13で、キハ5001、5002として働いていました。5001の方は江若時代に車体が中途半端に近代化されて直視に耐えないような形相を呈していました。それは原形が「びわこ型」と呼ばれる独特の流線形車体だったのを無理やり鋼体化してアルミサッシやHゴム窓にしていたからです。びわこ型は山陽電鉄や神戸電鉄で見慣れていて、その変貌ぶりと正面/側面のアンバランスは雑誌などで予備知識があったものの、目の当たりにして驚いたり呆れたりしたものです。

左:岡山臨港鉄道にて元江若鉄道DD1352と元中国鉄道のキハ3001 鉄研撮影旅行にて自身撮影     
                     右:別の日のキハ5001 富田さん撮影

江若廃止前のキニ4と同型の元キニ6から__
貫通総括制御化されたキハ5123 
小林さん撮影
 江若鉄道にはこれら流線形のキニ9-13と側面がほぼ同じ窓配置で正面が3枚窓(竣工時は4枚窓だったらしい)のおとなしいスタイルのキニ4-6がありましたが、私は後者のほうが断然お気に入りです。そしてこれこそ国鉄キハ41000のお手本になったと言うか、車体長を縮めた以外そっくり設計流用されたとも言われています(チョッと言い過ぎかな)。もう一つ余談の余談ですが、戦後このガソリンカーにトレーラーバス用の大型エンジンを搭載してディーゼル化したとされています。トレーラーバスと言うのは進駐軍が放出したトラクターを改造して別に作った客室部と連接構造にしたもので、私は1955年(昭和30年:6歳)頃神姫バスが運行していたのに乗車した経験があります。とてつもなく大きいバスだなと思ったことを覚えていますし、エンジンも当時としては相応に強力なものだったということでしょう。最下に参考写真を添えています。

御坊臨港鉄道(現紀州鉄道)キハ16 富田さん撮影
 江若鉄道(日本車両)のDNAを受け継ぎ国鉄で誕生したキハ41000は、戦後キハ14-17として琵琶湖畔に帰ってきました。これらは無骨な木製雨樋を纏うことなく最後まで優美な姿を保っていました。キハ16だけは御坊臨港鉄道(紀州鉄道)に譲渡され、その後他の旧型気動車と一緒に元気に働いている様子を確認しています。一方キハ42000はキハ18-24として江若鉄道に籍を置き、片運化や貫通化、総括制御化などの改造を受けたものは廃止後も譲渡先で活躍を続けました。このうちキハ24は貫通化改造の際に上の写真のキハ5123と同じくユニークな離れ目2灯になっていたので、美熟女に心奪われた私はそれを模型にして毎日眺めていました。ところが加越能鉄道を経由して関東鉄道常総線に終の棲家を得たと思っていたところ、久しぶりに見た写真にはヘッドライトが中央に移され妻面のアルミサッシ窓が無粋なHゴム固定になったおばあさんの姿が写っていて呆然としました。”関東鉄道キハ551”で検索すればその姿を見ることができます、が私は見たくありません。

2025/02/07

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その2

  国鉄から私鉄に譲渡されたキハ41000は67両、キハ40000は10両 (RMライブラリーキハ41000とその一族による)とのこと。製造数がそれぞれ190両と30両であったので、同じような比率で約1/3が私鉄に渡ったことになるようです。なおキハ40000に関しては半数の15両が外地へ供出された他、戦災やキサハ化などにより国鉄ではほぼ使われていなかった模様です。一方私鉄にはコピー設計した新造車両があって、微妙に国鉄車と違っているのが興味を惹きます。

 1951年(昭和26年)宇都宮車両(→富士重工→SUBARU)で製造された常磐炭鉱キハ21はキハ40000に準じた寸法ですが、車体上部は張り上げ屋根になっていて国鉄車より幾分モダンなスタイルになっています。原型は低いプラットフォームに合わせて乗降口が2段になっており、外観は路面電車のようにステップ部が大きく垂れ下がっていたようです。その後岡山臨港鉄道に移籍した際にステップは一般的な寸法に変更されています。羽後交通には片側にバケット(荷物台)を備えたキハ41000ベースの3両の張り上げ屋根車がありました。最初に登場したキハ1は常磐炭鉱向けより1年早く竣工していて、当時の写真(白黒)では車体長とバケット以外そっくりです。後に続くキハ2とキハ3は川崎車両製で、こちらは湘南顔になっていて金太郎塗りでした。私は1970年(昭和45年)に横手を訪ねていますが、臙脂とライトブルーの塗装が美しかったことを覚えています。残念なことにキハ1は火災で短命に終わり、雑誌やネットにもほとんど取り上げられていません。宇都宮車両は片上鉄道にもキハ41000タイプの張り上げ屋根車キハ311、312を納入しています。こちらは正面が2枚窓ですが傾斜がないので湘南型にはなりきれていませんし、せっかく雨樋がないのにその後車体と屋根が塗り分けられてスマートさに欠けてしまいもったいない感じがします(個人の好みによります)。現代でこそ張り上げ屋根なんか珍しくもありませんが、全金属製車両が登場する以前は側面と屋根の構造が異なっていたため、張り上げ屋根にするには少し面倒な工事が必要だったようです。当時の屋根は木の板を並べて曲面にした上にキャンバスを張り、コールタールを塗って防水するのが一般的でした。一方で側面は1.6mm(電車・客車は2.3mm)の鋼板を骨組みにリベットで打ち付けてあるので、外板を屋根まで延長するには屋根の骨組みの寸法まで変更しなければならないのでした。今鹿部電鉄で製作中のキハ40000は側板と妻板を構体に取り付けた後、別に組み立てた屋根を被せる方法を採ろうとしていますが、何を隠そう昔ながらの製作法に倣っているわけです。宇都宮車両や川崎車両がどのような工法を採用したのかその詳細は知る由もありませんが、おそらくは側面から屋根部まで一体の構体(骨組み)に同じ鋼板を貼り付けて行ったのではないかと想像します。すでに溶接による車体組立てや全金属製車体の製造に踏み出していた時代背景があったからではないかと想像します。

 張り上げ屋根ではない大多数の旧様式の気動車の車体側板と屋根の境目がどうなっているかと言うと、これがまた興味深くいくつかに分類できます。

 キハ41000とキハ40000の製造当初は屋根のキャンバスを側板に被せて鋲で止めてありました。言ってみれば張り下げ屋根です。これでは雨が落ちてくるので扉の上だけ水切りを設けて乗降時に濡れにくくしてあります。私の嗜好を言わせてもらうなら、この樋なし屋根がもっともスマートに見えて大好きです。鹿部電鉄ではこのタイプにすべく屋根の設計をしています。

 一部の私鉄では車体全周に張り下げたキャンバスの継目を隠すかのように水切りを巻いた車両がありました。一見樋のように見えますが、溝状になっていないので雨を流す機能はありません。

 コンパクトな鋼製の雨樋を巻いた車両もあります。なぜかキハ42000には新製時もしくはその後早い時期から鋼製雨樋がついており、この形式については鉄道会社や時代に関係なく他の構造に改造した例をほとんど見たことがありません。ただし鹿児島交通や夕張鉄道の自社発注車は正面のみ張り上げで樋がありません。水島臨海鉄道のキハ310(元中国鉄道買収気動車)はキハ41000タイプですが、雨樋がスリムな鋼製であるだけで他の車両と比べてとてもスマートに見えました。もちろん一般の利用者はそんなことには全く気を留めません。

鋼製雨樋付き九州鉄道記念館のキハ07(42000)と正面張り上げの鹿児島交通キハ100 鉄研富田さん撮影

 キハ41000タイプで最も多いのが木製雨樋です。前の投稿で北丹鉄道の「何の変哲もない」キハ04の写真をご覧ください。金属物資が不足した戦時中に限って木材を使用したのならわからなくもありませんが、戦後にせっかくノーリベットで登場したキハ41600(後のキハ06)が不細工で太いハチマキを巻いて3ヶ月の間に50両も量産されたのは不思議でなりません。晩年、休車や廃車で保守が行き届かないまま放置された時に真っ先に朽ちるのは木部であり、車庫の外れで痛ましい姿を晒しながら最期を待っている老体をやるせない気持ちで見送ったのも一度や二度ではありません。

 旧型気動車の張り上げ屋根と雨樋の余談雑談でした。余程の好き者でないと面白くもなんともない内容です、はいわかっています。

2025/01/24

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その1

  過日加古川で撮影した(隅の方に写っていた)唯一のキハ06の写真を載せました。学生時代に地方私鉄を訪ねて撮影した旧型気動車の写真が何枚もあるのですが、大部分は実家のどこかで荷物の下敷きになっているかタンスの引き出しの奥で眠っているはずです。もともと整理が下手で写真は撮りっ放しでした。何回か探そうと試みていくらかは救出しましたが、これ以上掘り出して見つけることはできないでしょう。そうなると昔の写真は他人頼みになるわけで、鉄研のメンバーが撮影した貴重な旧型気動車の記録をこのブログに引用させてもらうべく連絡を取ってお願いをしていました。

 そんなやり取りをしている時に見つけたのが北丹鉄道のキハ10 2です。10と2の間に微妙な間隔があって、型式キハ10の2号機みたいな表記です。鉄研のアルバムに貼ってあった1970年(昭和45年)天橋立で合宿した時の写真で、その前後には加悦鉄道の片ボギー車やキュウロク牽引の客レなど珍しい写真が並んでいます。撮影者と思しきメンバーに訊ねたのですが、今もって誰が撮ったのか著作権者不明のままです。元国鉄のキハ04で、塗色は腰板と幕板が臙脂で窓まわりがクリーム、もう一両あったキハ10 1は幕板も窓まわりと同じクリームで雨樋が臙脂に塗装してありました。2両とも扉はプレスドアに交換されています。言ってみれば旧型気動車としては何の変哲もない車両ですが、こいつが走っていた線路がとてつもなくヘロヘロで、上下左右に酷く揺れるので自転車並みのスピードが限界でした。

キハ102 福知山西駅 1970年7月5日 撮影者不明
 曲線区間ではトロッコの線路みたいにレールの継目でカクッと曲がって行く感じで、いつ脱線するかとハラハラしながら乗車しました。レールを曲げずに敷いて継目で少しずつ曲がるように繋ぐとは何たる手抜き工事かと呆れたのですが、このことについてWikipediaにその理由が書いてありました(出典不明)。元々建設資金が乏しかったので河川敷に線路を敷設したが、度重なる増水の被害で道床の砂利が流失したため曲線部のレールが元の直線(と言ってもヘロヘロ)に戻ってしまった由。修復も儘ならぬほどの経営難であったそうです。庭園鉄道では曲線部のレールは敷設前に曲げておきますが、実物の鉄道では弾性変形の範囲でわずかに曲げながら枕木に打ち付けて行くので、道床の砂利がなくなってしまったらさもありなんと乗車以来55年目にして納得したのでした。こんなことがわかるのも自分でレールを敷設した経験があればこそで、手抜き工事ならぬ金欠による手抜き保線が原因であったわけです。

 件の写真は福知山西駅停車中に撮影されたもので、妻板の左端の車窓には鉄研の旗を持った若き私が写っています。終点の河守(こうもり)までスリル満点の約12kmを、運転手の両手足による操作を観察しながら片道1時間近くかけて往復し、起点の福知山の一つ手前の車庫所在駅まで戻ってきたところをメンバーの誰かが撮影したのでしょう。それが誰だったのか全く記憶がありません。

 キハ40000に限らず学生時代の旧型気動車撮影行脚の思い出をシリーズで綴っていきます。


2025/01/14

今年の作業計画

  新年を迎えて今年の計画を立てようと考えましたが、もう何年も前からやらなければならないと思いながら手がついていない案件がいっぱいあってお手上げ状態になっています。特に昨年はキハの製作に集中することを最優先課題にしたこともあって、腐った枕木の手入れ(交換)や路盤の造成などを、大手を振って(?)後回しにしたツケが回って来ています。とは言えせっかくここまで出来たキハにあと少し力を注いで上回りの見栄えがするところまで持って行きたいのも山々です。ということで、計画立案を前にしてまずは昨年末まで溜まっていた案件を書き上げることにしました。

 キハの製作を開始して今年でもう3年目になりますが、どんな作業を放ったらかしにしていたのか漠然としか把握していませんでした。ブログの記事を遡ると2022年8月に「今後の方針とタイムスケジュール」というタイトルで、その時点での予定をリストアップしていました。前半はカヌー格納庫の整備とキハの台車に関して資材の手配や製作で、現時点でそれらはすでに完了しています。2年以上前に計画を立てて以来見直しはしていないけれど方向性にブレはなかった、と妙に納得しました。

 後半は、エンドレス延長、キハ留置線敷設、キハの車体と動力装置の設計・製作が挙げられていますので、今やるべきはこの詳細を詰めて優先順序を決定することです。

1.キハ車体

側・妻板、扉、ディテール(シル・ヘッダー)、屋根、通風器、前照灯、連結器の取付けおよび塗装

2.メンテナンス(線路・車両)

腐朽枕木交換、砂利交換、プラットフォーム修繕、車止め修繕、デ・ト再塗装

3.エンドレス延長

路盤造成(裏山土取り)、線路敷設、既設線区へのガードレール敷設、鉄橋設計

4.キハ留置線

路盤造成、簡易分岐器設計・製作、建屋設計・建築

5.キハ動力装置

構想(妄想)・設計・製作

 とりあえず優先順位の高いものから書きましたが、保線に関しては緊急事態が想定される場合や、鹿部っ子教室の見学スケジュールに合わせる必要があるので柔軟に対処することにします。キハがそれなりの完成度を見たあかつきには留置線にはせめて屋根が必要になりますから、優先順位が変わる可能性があります。いずれにしてもキハ車体の完成がすべてのスケジュールに影響を及ぼすので、これには心して向き合うつもりです。そのためにも冬ごもりの間に屋根や連結器、ベンチレーターなどの設計と材料手配を済ませておかなければなりません。キハの動力装置は妄想ネタとして最高に楽しいのでじっくり時間をかけて考えます。

留置中のキハ 現在はカバーをかけて雨ざらし

2025/01/01

謹賀新年2025

  昨年は15インチゲージを始めて以来の危機に遭遇しました。鹿部電鉄建設計画半ばにして6kgレールが生産中止になり、残りの線路敷設を諦めざるを得ない状況に追い込まれましたが、捨てる神あればのことわざ通り奇跡的にレールを入手することができて息を吹き返しました。

 妄想トレインたるキハ40000の製作は、ご多分に漏れず遅れ気味ながら、台車に続いて車体がその姿を見せるところまで漕ぎつけました。本年は是非とも鮮やかな塗装に身を包んでせめてキクハとして完成させたいと思っています。

 車両製作・整備と並行して既設線路の改修と新規線路の延長にも力を注ごうと考えています。体力的には厳しいものを感じており、どこまで計画(妄想)通りに進められるか甚だ疑問ではありますが、この歳になれば何より気力が大切であることはご近所の先輩高齢者が模範を示されているところであります。テニス、渓流釣り、カヌーと相変わらずの多趣味を楽しみながら、メインはやはり私のアイデンティティである庭園鉄道人生を享受することにあります。

 新年のご挨拶代わりに、季節外れですが写真を添えておきます。