2024/04/06

2024年始動

 今年は暖冬と言われていて2月下旬にはあちこちで地面が露出するくらいまで雪融けが進みました。ところが3月に入って毎日のように雪が降り、季節の時計が止まってしまったようでした。例年この時期、冬籠りから抜け出そうという気持ちとまだまだ寒いからもう少し暖かい部屋で過ごしたいという葛藤に悩みます。ところが柔らかい陽射しに誘われるような日には釣り竿を持って出かけてしまうので、なかなか庭の電車はかまってもらえません。

4月に入って庭の雪もほとんどなくなりました

車止めは撤去済でも
線路除雪注意の標識

 そんな消極的な生活に、とある人から刺激をもらうことがあって今日は重い腰を上げて庭に出ました。手始めに昨年11月に除雪車対策として撤去していた車止めを復旧することにしました。線路端の砂利を一旦除去し、車止めを元の位置に置いてからレールを継ぎ目板で固定、そこに砂利を戻します。毎年この作業を繰り返している内に砂利が散逸して嵩が減り、その代りに土や草の根が混ざり込んでみっともない状況になっていました。今さら篩にかける気も起らないので新しい砂利を増量してその場を切り抜けることにし、次に車止めを撤去した時に砂利とゴミの選別をします。

元の位置に復旧した車止め 砂利を増量してごみを隠す

 きっかけができたので、明日から気動車の台車の仕上げと台枠の製作に精出すことにします。

2024/03/28

待避線(余談雑談) 学んだことを人生に役立てる

 サインコサインとピタゴラスは鉄道製作の役に立ったので本線の話にしましたが、今日の話題はまるで余談です。数学や国語以外にも学校で教えてもらって今の生活で役に立つことがあります。英語が少し話せるようになったのは中高大学で10年間も授業を受けたお陰(?)で、海外出張前の英会話研修(6週間)の効果が大きかったとはいえ、基礎を学んでいればこそだったと思います。
 年齢を重ねると足腰が弱って節々が痛くなったり動作が緩慢になったり、それに付け込むようにテレビで「軟骨成分と筋肉成分を補う」などとサプリメントの宣伝をしています。「軟骨や筋肉はコラーゲンなどのタンパク質でできている」と言うのはウソではありません。しかし理科(生物)の授業で、口から入ったたんぱく質は消化器官で各種のアミノ酸に分解された後それぞれの組織でたんぱく質に再合成される、と習いました。軟骨や筋肉が衰えるのは摂取量が不足しているからではないことはこの知識があればわかることです(髪の毛を食べてもハゲが治らないのと同じ理屈です)。また糖質とは食物繊維を除く炭水化物のことで、糖質=糖類(甘いもの)ではありません。これも教わったはずですが、「甘いものを食べると糖尿病になる」などと多くの人が話しているのを聞きます。
 社会科で習った世界史、日本史の多くが戦争の歴史です。教科書には戦争があった事実だけではなく、悲劇に至ったきっかけや過程が克明に記されています。それを知って年号を暗記することだけが歴史の勉強ではないことはだれも理解しているのに、身近に戦争の兆候やその影響が忍び寄って来ても気付かないどころか、防衛=軍備増強という短絡的な発想が歴史から学んだ崇高な理念に基づいて作られた憲法の足元を揺さぶっています。

 因数分解とはたとえば
ac+ad+bc+bd=a(c+d)+b(c+d)=(a+b)(c+d)
思い出しながら手順を追うと、まず共通項であるaとbで括り出し、次に(c+d)という共通項を見つけて括り直す、すると元々足し算であった数式が(a+b)×(c+d)という掛け算に変わります。バラバラの人達をひとまとめにする時、共通項を持つ人ごとにグループに分けると今度はグループごとの共通項が見つかって縦横のつながりが強くなるってことがあります。人の能力は単なる足し算ではなく、集団同士の掛け算で大きくすることができるのです。抽象的な例え話ですが、因数分解の手法は職場やコミュニティでの能力開発のヒントになります。

 勉強の成果があって入学試験に合格した人もいれば、学校には行ったけど友達と遊んだ記憶しかないと言う人もいるでしょう。せっかく青春の貴重な時間を費やして学校に通ったのなら、何か記憶の中に残っている授業の片鱗を見つけ出して今の生活に役立てることができないか考えてみてはどうでしょうか。

 15インチゲージブログにそぐわない話題ですみませんでした。

2024/03/18

ピタゴラス

  中学校数学のお話しの続きです。「ピタゴラスの定理」は誰でも聞いたことはあると思いますが、「説明して」と言われて答えられる大人は半数くらいではないでしょうか(根拠はありません)。じゃぁ「知っていて何の得になるか」即答できる人はいるでしょうか?私は胸を張って言います。

ここでピタゴラスさん登場
 庭園鉄道を敷設する時役に立ちます。庭に曲線路を敷くには、レールベンダーでレールを曲げ、枕木の上に置くと線路ができていきます。レールはメッタヤタラに曲げても思い通りの線路になりませんから、あらかじめ半径何mの曲線で長さを何mにするという計画通りに作業を進めなければなりません。ここで曲げたレールの半径が予定通りになっているか、ピタゴラスの定理を使ってチェックすることができるのです。もちろんサインコサインを応用しても同じことができます。

 仮に半径5mを目標にして曲げたレールがあるとします。このレールの内面に長さが500mmの物差しをあてがい、その中央でレールと物差しの隙間δが何mmあるか測ります。これを図示すると下のようになります。ピタゴラスの定理によると直角三角形OABにおいて(OA)2=(AB)2+(BO)2が成り立ちます。 

数値を入れると

500022502+(BO)2 

これより

(BO)=±√(500022502)4993.7  (BO)>0

δ=(OA)-(BO)=5000-4993.7=6.3

または三角関数を用いて

sinθ=(AB) /(OA)=250/5000=0.05

これよりθ=2.87°

δ=(OA)×(1-cosθ)=6.3 と同じ答えが得られます。

もしレールが正しく半径5mに曲げられていたなら500mmの物差しとレールの隙間は6.3mmになっているはずだということがわかります。

同様に5m以外の半径に曲げられたレールと隙間の関係を計算すると右表のようになります。

半径が大きくなるとδが小さく、測定誤差が大きくなるのであてがう物差しを長くすることで精度を上げることができます。

50cm物差しの中央でレールとの隙間を測定する



 実際には5m以上もあるレールの全長を曲げてから半径を計測するのではなく、レールベンダーのラム(油圧ジャッキの可動部)がレールに当たった時と油圧を抜いてスプリングバックした時にもう一度ラムをレールに当てて出っ張りを測定すればその差がδになります。ただし、レールベンダーのフック間の寸法が物差しと同じ500mmの場合にこれは成り立ちます。上にも書いてあるようにスプリングバック(弾性による戻り)があるので、この数値になるまでラムでレールを押せば所定の曲率半径になると言う単純な意味ではありません。だからこの方法で狙い通りに曲げられるようになるには、慣れやコツ、裏技、荒技、さらに細かいことには目を瞑る鷹揚な性格が求められます。庭園鉄道の敷設には数学(幾何学)の知識が役に立ちますが、レールの曲がり具合はあくまでもハンドルの手加減で決まります。

 下の動画では手慣れた要領で、ハンドルを引く回数やラムの高さ測定も一発で決めています。

2024/03/08

サイン・コサイン・タンジェント

 私が受験生だった頃、受験生ブルースというフォー久ソング(?)が流行りました。その歌詞の中に「サインコサイン何になる」というくだりがあり、当時目的もなく勉強させられていた若者の不満が表現されていました。確かに技術者か研究者にでもならなければ三角関数や微積分は何の役にも立ちません。逆に理系の私は古文の助動詞の活用なんか知って何の得になるのかと思いながら暗記したものですが、この歳になっても「な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね」と暗誦できるし、おかげで古語や和歌の意味が理解できるのは皮肉なものです。で、なんで鹿部電鉄にサイン・コサイン・タンジェントなのかと言うと、この知識(というほどのものではありませんが)がキハ40000の設計に役立ったので、まだ実際の加工にまで至っていませんが紹介しておこうと思ったからなのです。
 ここで三角関数の復習をしましょう。直角三角形の三辺の長さをa、b、cとし、直角でない一つの頂点の角度をθとすると、下図のような関係になります。半径がaの円周長は2πaですから中心角がθの扇形の弧長はそのθ/360倍になることを思い出してください。

 この三角関数を何に利用するかと言えば、妻板の窓幅や幕板、腰板の長さの計算に使うと便利で、実物のスケールダウンに有効な手段になります。
16番の模型を真鍮やぺーパーで作る時に妻板の展開図は真正面から見た寸法と異っていて、例えば正面3枚窓なら中央は図面通り、両側は1mmほど幅広にケガき、折り曲げてから様子を見ながら切り抜く、という大雑把な加工を私はしていました。何台も様々な車両を作っていると、実物を見ただけで妻板の曲率や窓の大きさをどれくらいにすればいいか見当がつくようになります。
大きな模型の場合は失敗したら作り直せばいいと気楽に考えられませんので、加工前に綿密に寸法を計算しておくことが失敗を防ぐ手立てになります。
具体的にどんな計算をするのか簡単な例で説明します。右図は一般的な車体実寸法の妻板部の横断面図(上)と正面図(下)です。仮に車体幅2800mm、正面窓は幅800mmの三枚、妻面の曲率は均一で半径3000mmとします。この図の三角形OABを上の図のOABに当てはめるとaとbが既知なのでsinθが逆算できてθ=27.8°がわかります。そして妻板の出っ張りもcosθから346mmとなります。同じように計算すると800mm幅の両脇の窓が正面から見ると762mmになることもわかります。設計寸法を黒字で、計算結果を赤字で示してあります。この計算を応用すると正面図を測った数値から展開寸法を計算することもできます。
 さてキハ40000は正面4枚窓で竣工図によると中央寄りの窓幅は580mm両側が500mm(いずれも車内側内寸)、妻面の半径は推定2700mmです。窓の比率を保持したまま1/3にスケールダウンし、車外から見た窓と桟の寸法と正面図上の寸法を計算します。つまり半径900mmの円弧上の窓の幅に対する中心角を求め、cosを掛けると正面図の寸法になります。同じように妻板の中央がどれだけ出っ張っているかを計算し、幕板や腰板を短冊状の細板から製作する際の素材寸法と併せて補強材(図中④の弓形部材)の設計に利用します。屋根に薄い杉板を貼り付けて曲面を形成する際の材料設計にも使うことができます。


 決して高等数学ではなく、中学校で習った三角関数の基本です。鉄っちゃん受験生にはきっと励みになるので「サインコサインは電車作りの役に立つ」と教えてあげましょう。
妻板の曲面をいかに再現するかが作り鉄の腕の見せ所

2024/03/01

待避線(余談雑談) 自分の趣味を存分に楽しむ

 決して好きではない仕事に追われる日々を過ごしていた頃に比べると、老後の生活は生きたままの極楽です。線路の敷設や電車の製作をしたり、釣りやスポーツに興じたり、好きなことをしているだけで一日が終わります。と言うとそれはウソで、たまには面倒なこともせねばなりません。例年この季節、確定申告で医療費やその他の証憑をかき集める作業が待っています。難しいとか知恵を絞らないといけないというわけではないのですが、普段から整理整頓が苦手な性分なのでとにかく着手前から気が重いのです。

 じゃぁ電車を作っている時はずっと楽しいばかりかと言うと、それも作業の内容によって腕や肩や腰が痛くなったり息切れしたり、身体が言うことを聞いてくれない時は嫌になることがあります。設計や組立で行き詰ったり、計画通りに進まなかったり、こんなことしていていいのだろうかと悩むこともあります。しかし、よく考えてみると誰かから給料もらってやっているわけではありませんし、予定の期日までに終わらないからと言って責任を問われたりはしません。人間は快楽だけに満たされた生活なんか絶対にできないように創られていて、かならず一定の苦しさや悩みが湧き出て来るようになっているのだと思います。そういう煩わしさを上手くあしらいながらできるだけ楽しく生きることで喜びも倍増するのだと考えればそんな人間の性にも納得できます。

 私の人生経験から得た楽しく生きるコツは「よろしくない人間関係に振り回されないこと」です。社会生活をしていると、自分が選んだわけではない人と関係を持たざるを得ないことが多々ありますが、そういう場合の付き合いは最小限に留めるように心がけてきました。一方で鉄道趣味は基本的に自分一人の世界ですから人間関係が問題になることはないはずです。ただし同志が現れて一緒に線路や電車を作ろうということになったり、サークルの世話役を引き受けることになったり、誰か(または何らかの団体)のために電車の運転を披露したりするような場合には色々と気遣いしなければならなくなります。ここで作業や運営上の意見が食い違ったりすると(まず間違いなく食い違いは起こります)、一緒に楽しくやろうという前提が崩れてしまい、再調整が必要になってきます。鉄道好きが同じ話題についておしゃべりをするのは本当に楽しいことで、時間が過ぎるのも忘れて話し込むこともあり、私は大好きです。語り合っているだけの間は互いに敬意を持ち続けることが可能なので考えに差があっても問題は起こりませんが、具体的にモノやコトを動かす上で意見が異なると簡単に解決できず、エスカレートすると信頼関係にも影響を及ぼしかねません。前にも触れましたが私はメンタルが弱いので、そういう状況に遭遇すると途端に気が滅入ってしまい、趣味を楽しむどころではなくなってしまうのではないかと懸念するわけです。

 庭の電車は私自身のため、趣味の心を満たすために作ったのだということをあらためて肝に銘じた上で、ご近所を始めとする世間とのお付き合いを続けて行こうと思っています。

2024/02/16

待避線(余談雑談) 大沼電鉄の昔話

  鹿部電鉄のモチーフである大沼電鉄は開業してから95年、廃止されてから72年が経過し、その詳細を知ることはずいぶん難しくなってしまいました。それでも10年前に鹿部に移住してきた時は、手当たり次第に昔のことを知っている人がいないか聞いたものです。その甲斐あって、電鉄関係者や歴史に造詣の深い人と知り合いになったり話を聞かせてもらったりと、色んなことがわかるようになりました。ネット上にも大沼電鉄に関する記事があって最初は興味をもって参照していましたが、詳しく調べている内に誤った情報源からの受け売りや先入観による間違った決め付けがたくさんあることに気付き、あらためて自分の目と耳で確証を得ることの重要性を認識しました。ここでは地元での聞き込みと古文書の調査から浮かび上がった知られざる大沼電鉄での列車運用に関する昔話を書きます。

2両の客車を牽いて新小川-留ノ沢間を行く電車
背後に見えるのは折戸川第1発電所とその導水
              鹿部町史写真集から
 鹿部から大沼方面へ現在は道道43号線(大沼公園鹿部線)が便利ですが、大沼電鉄が開業した昭和初期には既に地道として馬車や荷車などが通っていたようです。電鉄は折戸川を挟んだ対岸をほぼこの道に並行して走っていました。鹿部停留場から折戸川を渡るまでは海岸線と平行に走るので平坦ですが、左折してから川沿いの線路は緩やかな上り坂が続きます。留ノ沢(とめのさわ)を過ぎて山間部に入ると左に右に急曲線(R100)と急勾配(30)をうねりながら大沼湖畔の銚子口迄登りつめます。電車とはいえ、2軸電動車が2両の付随客車を牽引している写真があり、相当過酷な運転であったことが伺い知れます。さらに鹿部の海産物を積み込んだ省線直通の貨車を客車の後に連結していたという話を聞きました。いくらなんでも客車と貨車を何両も1台の電車で引き上げるのは無理だと考えられます。さてこの難問をどうやって解決していたのか、古老から聞いたお話を紹介します。その前に大沼電鉄の位置をGoogleマップに記入しましたので参照ください。

省線(国鉄函館本線)の大沼(現大沼公園)から鹿部まで17.2kmを結んでいました
上図の函館本線(砂原回り)は戦時中(1945年)の開通で当時まだありませんでした

 撮影時期も撮影者も不明ですが、留ノ沢の写真があります。写真の奥が鹿部方向、カメラの背後が急曲線急勾配を登る大沼、銚子口方向です。左の写真には分岐器が写っていて左の方に無造作に分かれて数十mほどの直線路があります。もう1枚の写真は電鉄開業半年後に駒ケ岳が大噴火した際に降灰に埋まった同駅の様子です。奥の方の小山の手前、2人の人物の間に本線から外れて無蓋車が写っているので、つまりこの留置線は開業当初からあったことが推測されます。留ノ沢は山に囲まれた留の湯という温泉以外に何もない場所であり、元々貨物の積み降ろしをする必要のある場所ではありません。なんでこんな駅に分岐線があったのか不思議に思っていました。

左:留ノ沢のホームから鹿部方向を撮った写真、左の建物は留の湯 撮影者不明 
右:1929年(昭和4年)6月の様子、右の人の向こうに無蓋車が見える 鹿部町史から

 勾配を登りきった先には開業時から銚子口という駅があり、鹿部大沼間線路平面図という大判の青写真に「銚子口停留場」の文字が読み取れます。さて銚子口という地名は、大沼を酒徳利に例えて流出口にあたる辺りを指します。実は大沼電鉄の銚子口駅は時代と共に3ヶ所を変遷したと言われていて、開業時の銚子口駅はその後湖畔に移り「銚子口(水泳場)」となりました。元の駅は客扱いをやめて銚子口信号場となりましたが、廃止したのではなく信号場と名乗っていたことから少なくとも側線か行き違い設備があったことが想像されます。(3つ目は戦後路線短縮して起点となった国鉄銚子口駅前になりますが、本題から外れるのでここでは触れません。) つまり留ノ沢と銚子口は3㎞弱の距離で隣り合う小さな駅ですがそれぞれ分岐器と留置線を備えていたということになります。

 古老の話によると客車と貨車を連ねた大沼公園行の列車はそのままでは勾配を登れないので、留ノ沢でスイッチバックして側線で後部の貨車を切り離し、客車だけを牽引して銚子口に向けて勾配を上って行ったということです。銚子口の側線に客車を切り離すと電動車だけが坂を下り、留ノ沢で貨車を拾って銚子口に戻り、平坦な本線上に貨車を置いてから側線の客車を牽き出し、再び貨車に連結して元の編成に戻したそうです。

留ノ沢での客貨分割

銚子口での併合

 この分割併合と余計な一往復のためには相当に手際よく立ち回っても30分はかかるはずですが、乗客は気長に待っていたのでしょうね。且つて国鉄の地方路線では混合列車が運転されていて、客車を本線に置いたまま側線へ貨車を入れたり引き出したりしていたので、当時の時間感覚としては受け入れられる範囲であったのではないかと考えられます。乗客数や貨物量によってこのようなことが臨機応変で行われていたとしたら時刻表との関係ががどうなっていたのか気になります。

 もし今どきこんな運用が見られたとしたら大勢の鉄っちゃんやYouTuberが押しかけて来て留の沢も賑わいを見せたかもしれません。「次の列車が来るまで2時間、留の湯に浸かって待つか?」とか言ったりして。あっ、またまた温泉電車です。

2024/02/09

待避線(余談雑談) 温泉電車

 温泉にまつわる電車のお話しです。

鹿部間欠泉公園
 まずはウチの温泉、我が家の裏に聳える北海道駒ケ岳は活火山(近年こういう言い方はしないそうですが)で、鹿部町には温泉を利用した旅館や入浴施設の他、間欠泉という15分毎に熱水が空高く吹き上がる名所に道の駅が作られています。我が家にも温泉配管が繋がっていて24時間いつでも湯浴みすることができます。少ししょっぱくて、日によってはわずかに濁りが入ることもあり、活きている感じがします。せっかくなので蛇口から出る温泉水(お湯)をバケツに汲んで庭に運び、トの荷台に置いた桶に張って足湯にしてみました。その感想は、確かに足は暖かいが体を動かすとトも前後に移動するのでなんとなく落ち着かず、足を伸ばしてゆっくり憩うという温泉本来の風情は全く感じられない、と正直に告白いたします。

鹿部電鉄「トの湯」

 そもそも大沼電鉄が鹿部に線路を敷いたのは当時北海道最大の都市であった函館の奥座敷にしようという目論みがあったからでした。東京の箱根、大阪の有馬を追うように鉄道の威を借りたのですが、その後函館は札幌に追い抜かれ定山渓温泉に奥座敷の座を奪われてしまいました。

 ちょうど5年前の20192月、東京滞在中に群馬県の伊香保温泉へ足を延しました。デ1が完成間近になり、自分の目で見て参考にしたい電車がそこにあったからでした。明治時代に馬車鉄道として開業し、昭和になってからは東武鉄道の路線として1956(昭和31)に廃止となるまで2軸の木造電車が走っていたとのことで、古い写真を見た記憶がありました。個人で保管されていた木造車体に元豊橋鉄道の廃台車を組み合わせて復元した電車が屋根付きで保存されていると聞き、温泉に入りたいと言う家内と連れ立ってのんびり在来線グリーン車を乗り継いで日帰り列車旅を楽しみました。伊香保温泉街の旧線路跡に近い一角に小さな公園があり、きれいな褐色の濃淡に塗り分けられた電車が置いてありました。近づいてみると何十年も屋外で風雨に晒されていたとは思えぬほどに良好な状態ですが、バネの負荷を減らすためにつっかい棒が車体の下に噛ませてあったり、いたずら防止のためかブレーキハンドルに鎖が巻き付けてあったり、扉は固定されていたりと保存環境を守るための苦労の跡が散見されます。その扉はなんと外吊りで、冬はすきま風に悩まされたことであろう日々が偲ばれました。一番見たかったのは屋根上のポールで、これはどこから持ってきたのかわからないものの、まがい物ではなくおそらく本物でしょう。上から見下ろせたら詳しく観察できたのですが贅沢は言えません。見学の後、そばを食べてからホテルの日帰り入浴で露天風呂に浸かって癒しの時間を満喫しました。

上:温泉街の公園に、軌道の一部や駅名標と共に復元保存された電車
下左:辛うじて見えるポール    下右:説明板にあった昔の写真

 サラリーマン時代にも時々温泉巡りをしていました。露天風呂に浸かり、木の葉越しに空を眺めると何とも言えずくつろぎます。そうやって湯に沈んでいる時は、仕事のことはすっかり忘れて極楽気分を楽しもうと努めたものでした。今、認知症気味でもの忘れのひどくなった私は湯に浸かりながらも大切な用事や約束がどこかに飛んで行ってしまわないように、心底気を緩めることができません。伊香保温泉でくつろぎ過ぎたせいか、東京から帰りの飛行機の日付を間違って予約してしまい、とんだ出費に泣くことになりました。