鹿部電鉄のモチーフである大沼電鉄は開業してから95年、廃止されてから72年が経過し、その詳細を知ることはずいぶん難しくなってしまいました。それでも10年前に鹿部に移住してきた時は、手当たり次第に昔のことを知っている人がいないか聞いたものです。その甲斐あって、電鉄関係者や歴史に造詣の深い人と知り合いになったり話を聞かせてもらったりと、色んなことがわかるようになりました。ネット上にも大沼電鉄に関する記事があって最初は興味をもって参照していましたが、詳しく調べている内に誤った情報源からの受け売りや先入観による間違った決め付けがたくさんあることに気付き、あらためて自分の目と耳で確証を得ることの重要性を認識しました。ここでは地元での聞き込みと古文書の調査から浮かび上がった知られざる大沼電鉄での列車運用に関する昔話を書きます。
2両の客車を牽いて新小川-留ノ沢間を行く電車 背後に見えるのは折戸川第1発電所とその導水管 鹿部町史写真集から |
省線(国鉄函館本線)の大沼(現大沼公園)から鹿部まで17.2kmを結んでいました 上図の函館本線(砂原回り)は戦時中(1945年)の開通で当時まだありませんでした |
撮影時期も撮影者も不明ですが、留ノ沢の写真があります。写真の奥が鹿部方向、カメラの背後が急曲線急勾配を登る大沼、銚子口方向です。左の写真には分岐器が写っていて左の方に無造作に分かれて数十mほどの直線路があります。もう1枚の写真は電鉄開業半年後に駒ケ岳が大噴火した際に降灰に埋まった同駅の様子です。奥の方の小山の手前、2人の人物の間に本線から外れて無蓋車が写っているので、つまりこの留置線は開業当初からあったことが推測されます。留ノ沢は山に囲まれた留の湯という温泉以外に何もない場所であり、元々貨物の積み降ろしをする必要のある場所ではありません。なんでこんな駅に分岐線があったのか不思議に思っていました。
左:留ノ沢のホームから鹿部方向を撮った写真、左の建物は留の湯 撮影者不明 右:1929年(昭和4年)6月の様子、右の人の向こうに無蓋車が見える 鹿部町史から |
勾配を登りきった先には開業時から銚子口という駅があり、鹿部大沼間線路平面図という大判の青写真に「銚子口停留場」の文字が読み取れます。さて銚子口という地名は、大沼を酒徳利に例えて流出口にあたる辺りを指します。実は大沼電鉄の銚子口駅は時代と共に3ヶ所を変遷したと言われていて、開業時の銚子口駅はその後湖畔に移り「銚子口(水泳場)」となりました。元の駅は客扱いをやめて銚子口信号場となりましたが、廃止したのではなく信号場と名乗っていたことから少なくとも側線か行き違い設備があったことが想像されます。(3つ目は戦後路線短縮して起点となった国鉄銚子口駅前になりますが、本題から外れるのでここでは触れません。) つまり留ノ沢と銚子口は3㎞弱の距離で隣り合う小さな駅ですがそれぞれ分岐器と留置線を備えていたということになります。
古老の話によると客車と貨車を連ねた大沼公園行の列車はそのままでは勾配を登れないので、留ノ沢でスイッチバックして側線で後部の貨車を切り離し、客車だけを牽引して銚子口に向けて勾配を上って行ったということです。銚子口の側線に客車を切り離すと電動車だけが坂を下り、留ノ沢で貨車を拾って銚子口に戻り、平坦な本線上に貨車を置いてから側線の客車を牽き出し、再び貨車に連結して元の編成に戻したそうです。
留ノ沢での客貨分割 |
銚子口での併合 |
この分割併合と余計な一往復のためには相当に手際よく立ち回っても30分はかかるはずですが、乗客は気長に待っていたのでしょうね。且つて国鉄の地方路線では混合列車が運転されていて、客車を本線に置いたまま側線へ貨車を入れたり引き出したりしていたので、当時の時間感覚としては受け入れられる範囲であったのではないかと考えられます。乗客数や貨物量によってこのようなことが臨機応変で行われていたとしたら時刻表との関係ががどうなっていたのか気になります。
もし今どきこんな運用が見られたとしたら大勢の鉄っちゃんやYouTuberが押しかけて来て留の沢も賑わいを見せたかもしれません。「次の列車が来るまで2時間、留の湯に浸かって待つか?」とか言ったりして。あっ、またまた温泉電車です。
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