2024/02/16

待避線(余談雑談) 大沼電鉄の昔話

  鹿部電鉄のモチーフである大沼電鉄は開業してから95年、廃止されてから72年が経過し、その詳細を知ることはずいぶん難しくなってしまいました。それでも10年前に鹿部に移住してきた時は、手当たり次第に昔のことを知っている人がいないか聞いたものです。その甲斐あって、電鉄関係者や歴史に造詣の深い人と知り合いになったり話を聞かせてもらったりと、色んなことがわかるようになりました。ネット上にも大沼電鉄に関する記事があって最初は興味をもって参照していましたが、詳しく調べている内に誤った情報源からの受け売りや先入観による間違った決め付けがたくさんあることに気付き、あらためて自分の目と耳で確証を得ることの重要性を認識しました。ここでは地元での聞き込みと古文書の調査から浮かび上がった知られざる大沼電鉄での列車運用に関する昔話を書きます。

2両の客車を牽いて新小川-留ノ沢間を行く電車
背後に見えるのは折戸川第1発電所とその導水
              鹿部町史写真集から
 鹿部から大沼方面へ現在は道道43号線(大沼公園鹿部線)が便利ですが、大沼電鉄が開業した昭和初期には既に地道として馬車や荷車などが通っていたようです。電鉄は折戸川を挟んだ対岸をほぼこの道に並行して走っていました。鹿部停留場から折戸川を渡るまでは海岸線と平行に走るので平坦ですが、左折してから川沿いの線路は緩やかな上り坂が続きます。留ノ沢(とめのさわ)を過ぎて山間部に入ると左に右に急曲線(R100)と急勾配(30)をうねりながら大沼湖畔の銚子口迄登りつめます。電車とはいえ、2軸電動車が2両の付随客車を牽引している写真があり、相当過酷な運転であったことが伺い知れます。さらに鹿部の海産物を積み込んだ省線直通の貨車を客車の後に連結していたという話を聞きました。いくらなんでも客車と貨車を何両も1台の電車で引き上げるのは無理だと考えられます。さてこの難問をどうやって解決していたのか、古老から聞いたお話を紹介します。その前に大沼電鉄の位置をGoogleマップに記入しましたので参照ください。

省線(国鉄函館本線)の大沼(現大沼公園)から鹿部まで17.2kmを結んでいました
上図の函館本線(砂原回り)は戦時中(1945年)の開通で当時まだありませんでした

 撮影時期も撮影者も不明ですが、留ノ沢の写真があります。写真の奥が鹿部方向、カメラの背後が急曲線急勾配を登る大沼、銚子口方向です。左の写真には分岐器が写っていて左の方に無造作に分かれて数十mほどの直線路があります。もう1枚の写真は電鉄開業半年後に駒ケ岳が大噴火した際に降灰に埋まった同駅の様子です。奥の方の小山の手前、2人の人物の間に本線から外れて無蓋車が写っているので、つまりこの留置線は開業当初からあったことが推測されます。留ノ沢は山に囲まれた留の湯という温泉以外に何もない場所であり、元々貨物の積み降ろしをする必要のある場所ではありません。なんでこんな駅に分岐線があったのか不思議に思っていました。

左:留ノ沢のホームから鹿部方向を撮った写真、左の建物は留の湯 撮影者不明 
右:1929年(昭和4年)6月の様子、右の人の向こうに無蓋車が見える 鹿部町史から

 勾配を登りきった先には開業時から銚子口という駅があり、鹿部大沼間線路平面図という大判の青写真に「銚子口停留場」の文字が読み取れます。さて銚子口という地名は、大沼を酒徳利に例えて流出口にあたる辺りを指します。実は大沼電鉄の銚子口駅は時代と共に3ヶ所を変遷したと言われていて、開業時の銚子口駅はその後湖畔に移り「銚子口(水泳場)」となりました。元の駅は客扱いをやめて銚子口信号場となりましたが、廃止したのではなく信号場と名乗っていたことから少なくとも側線か行き違い設備があったことが想像されます。(3つ目は戦後路線短縮して起点となった国鉄銚子口駅前になりますが、本題から外れるのでここでは触れません。) つまり留ノ沢と銚子口は3㎞弱の距離で隣り合う小さな駅ですがそれぞれ分岐器と留置線を備えていたということになります。

 古老の話によると客車と貨車を連ねた大沼公園行の列車はそのままでは勾配を登れないので、留ノ沢でスイッチバックして側線で後部の貨車を切り離し、客車だけを牽引して銚子口に向けて勾配を上って行ったということです。銚子口の側線に客車を切り離すと電動車だけが坂を下り、留ノ沢で貨車を拾って銚子口に戻り、平坦な本線上に貨車を置いてから側線の客車を牽き出し、再び貨車に連結して元の編成に戻したそうです。

留ノ沢での客貨分割

銚子口での併合

 この分割併合と余計な一往復のためには相当に手際よく立ち回っても30分はかかるはずですが、乗客は気長に待っていたのでしょうね。且つて国鉄の地方路線では混合列車が運転されていて、客車を本線に置いたまま側線へ貨車を入れたり引き出したりしていたので、当時の時間感覚としては受け入れられる範囲であったのではないかと考えられます。乗客数や貨物量によってこのようなことが臨機応変で行われていたとしたら時刻表との関係ががどうなっていたのか気になります。

 もし今どきこんな運用が見られたとしたら大勢の鉄っちゃんやYouTuberが押しかけて来て留の沢も賑わいを見せたかもしれません。「次の列車が来るまで2時間、留の湯に浸かって待つか?」とか言ったりして。あっ、またまた温泉電車です。

2024/02/09

待避線(余談雑談) 温泉電車

 温泉にまつわる電車のお話しです。

鹿部間欠泉公園
 まずはウチの温泉、我が家の裏に聳える北海道駒ケ岳は活火山(近年こういう言い方はしないそうですが)で、鹿部町には温泉を利用した旅館や入浴施設の他、間欠泉という15分毎に熱水が空高く吹き上がる名所に道の駅が作られています。我が家にも温泉配管が繋がっていて24時間いつでも湯浴みすることができます。少ししょっぱくて、日によってはわずかに濁りが入ることもあり、活きている感じがします。せっかくなので蛇口から出る温泉水(お湯)をバケツに汲んで庭に運び、トの荷台に置いた桶に張って足湯にしてみました。その感想は、確かに足は暖かいが体を動かすとトも前後に移動するのでなんとなく落ち着かず、足を伸ばしてゆっくり憩うという温泉本来の風情は全く感じられない、と正直に告白いたします。

鹿部電鉄「トの湯」

 そもそも大沼電鉄が鹿部に線路を敷いたのは当時北海道最大の都市であった函館の奥座敷にしようという目論みがあったからでした。東京の箱根、大阪の有馬を追うように鉄道の威を借りたのですが、その後函館は札幌に追い抜かれ定山渓温泉に奥座敷の座を奪われてしまいました。

 ちょうど5年前の20192月、東京滞在中に群馬県の伊香保温泉へ足を延しました。デ1が完成間近になり、自分の目で見て参考にしたい電車がそこにあったからでした。明治時代に馬車鉄道として開業し、昭和になってからは東武鉄道の路線として1956(昭和31)に廃止となるまで2軸の木造電車が走っていたとのことで、古い写真を見た記憶がありました。個人で保管されていた木造車体に元豊橋鉄道の廃台車を組み合わせて復元した電車が屋根付きで保存されていると聞き、温泉に入りたいと言う家内と連れ立ってのんびり在来線グリーン車を乗り継いで日帰り列車旅を楽しみました。伊香保温泉街の旧線路跡に近い一角に小さな公園があり、きれいな褐色の濃淡に塗り分けられた電車が置いてありました。近づいてみると何十年も屋外で風雨に晒されていたとは思えぬほどに良好な状態ですが、バネの負荷を減らすためにつっかい棒が車体の下に噛ませてあったり、いたずら防止のためかブレーキハンドルに鎖が巻き付けてあったり、扉は固定されていたりと保存環境を守るための苦労の跡が散見されます。その扉はなんと外吊りで、冬はすきま風に悩まされたことであろう日々が偲ばれました。一番見たかったのは屋根上のポールで、これはどこから持ってきたのかわからないものの、まがい物ではなくおそらく本物でしょう。上から見下ろせたら詳しく観察できたのですが贅沢は言えません。見学の後、そばを食べてからホテルの日帰り入浴で露天風呂に浸かって癒しの時間を満喫しました。

上:温泉街の公園に、軌道の一部や駅名標と共に復元保存された電車
下左:辛うじて見えるポール    下右:説明板にあった昔の写真

 サラリーマン時代にも時々温泉巡りをしていました。露天風呂に浸かり、木の葉越しに空を眺めると何とも言えずくつろぎます。そうやって湯に沈んでいる時は、仕事のことはすっかり忘れて極楽気分を楽しもうと努めたものでした。今、認知症気味でもの忘れのひどくなった私は湯に浸かりながらも大切な用事や約束がどこかに飛んで行ってしまわないように、心底気を緩めることができません。伊香保温泉でくつろぎ過ぎたせいか、東京から帰りの飛行機の日付を間違って予約してしまい、とんだ出費に泣くことになりました。

2024/01/25

待避線(余談雑談) 15インチゲージを始めて変わったこと

珍しく渓流釣行で撮影した若桜鉄道
           若桜駅近くにて自身撮影
 長い人生ですから鉄道大好きとは言いながら色んなものに興味を持っていました。一番好きなものはもちろん鉄道ですが、どちらかと言うと多趣味な分類に入るのではないかと思います。だからスキーや旅行に行ってもその道すがら必ず電車の写真を撮るという鉄っちゃんの基本行動は忘れません。ただし、渓流釣りに没頭していた50代後半の頃だけは移動に自家用車を使い、頭上の鉄橋を行く電車や気動車を見向きもせずに魚信に集中したものです。定年後は「鹿部前史」(2020/10/8投稿)に書いた通り、徐々に鉄道趣味に戻りました。そこで元々の鉄っちゃんに戻ったかというと、15インチゲージを始めたことで私の鉄道に対する嗜好はかなり変わったように思います。

 若い頃の私は作り鉄と並んで運転鉄、と言っても実物の電車を運転できるはずはなく、正しくは運転妄想鉄でした。好きな電車の運転席で好きな路線を運転している妄想を楽しむわけで、例えば路面電車を運転しながら高架線に乗り入れてぶっ飛ばしたり、逆に地下鉄列車で併用軌道を走ったり、はたまた機械式気動車で手動変速しながら長閑な地方線の交換駅で対向列車を待ったりしていました。運転する車両には好みがあって、電車の制御器では自動進段のマスコンではなく間接非自動、制動装置は直通ブレーキが得意です。この妄想は脳だけでするのではなく、目はつむったり宙を見たりしていますが両ハンドルに合わせて思わず手首が動くことがあります。こんなことするのは私だけだと思っていたら、ある日ロングシートの片隅で目を閉じたまま電車が動いたり止まったりするたびに両手を捻るように動かしている人を見たことがあります。

         好きな電車名鉄モ600のHL制御器とSMEブレーキ弁 旧美濃駅にて自身撮影
    50年以上前の記憶から自身で作画
 19703月大阪万国博覧会が開催されました。どこのパビリオンだったか忘れましたが、コンピューターで鉄道の運転が出来るというウワサを聞いて長い列に並びました。1時間近く待ってやっと会場に入ったところにあったのが、マスコンっぽい箱とブレーキっぽいハンドルが並んだテーブル、そして緑色の画面のテレビモニターでした。その当時おそらくパビリオンを出すくらいの大企業にとってもコンピューターは高価な代物だったのでしょう。1台のコンピューターで鉄道の運転と詰め将棋の対戦が2時間おきに切り替えられるとの表示がありました。その時運転に興じていたのは小学生で、コンパニオンに教えられながらも全然へたくそだったので、妄想運転の得意な私なら急停止も行き過ぎもせずに100点の運転が出来るだろうと自信に満ちていました。ちょうど後2人で順番が回って来るところまで来てドキドキしていたら、「この後コンピューターとの詰め将棋対戦に変わりますが、お客様はどうなさいますか?」と尋ねられました。「いや、電車の運転!」と主張しましたが聞き入れられず、「では次のお客様、前へ。」と冷酷無情の対応に涙を飲みました。

 それから30年近く経って長男が「お父さんの好きなヤツ借りて来たよ。」と、「電車でGO!」を自宅に持って帰って来ました。話に聞いてはいましたが、早速試してみると画面はマニアックで面白く、ワンハンドルコントローラーもよくできている、万博のコンピューターからよくもここまで進化したなぁ、と感心しました。しかし、制限速度調整や定位置への停車はどうしても思い通りにならず、「本当の運転手でもこれはチト難し過ぎるゾ。」と臍を噛みながらギブアップしました。さらにリアルな前面展望と運転操作機器を装備したシミュレーターが各地の博物館などに置かれるようになり、どこも人だかりができたり抽選に当たらないと体験できなかったりという人気を博しているようです。私が幼少の頃には電車の運転方法を知っている子供なんか一人もいなかったのに、ずいぶんな世の中になったものです。

 一昨年大宮の鉄道博物館を訪ねた際にも多種多様のシミュレーターが館内のあちこちにあることを知りました。車掌体験やみどりの窓口発券シミュレーターなんかもあるそうです。そこを訪ねたのは鹿部で15インチゲージのキハ40000を導入しようと考えていた時で最大の目的がそちらに向いていたこともありますが、もう充分にデ1の運転を堪能していたのでいまさらシミュレーターでの運転に興味は湧かず、そのエリアには入りませんでした。電車の運転に憧れていた頃だったら真っ先に見に行き、飽きずに体験を繰り返していたことでしょう。

    ゲージは600mmだとか 自身撮影
 そもそも鉄道博物館が大宮に開館する時にミニ鉄道の体験運転が出来ると聞いて、是非乗ってみたいと思っていたものですが、実際にここを訪ねた時は鹿部電鉄の増備車の参考になればとの期待から車両構造を見に行きはしましたが、やっぱり乗ってみようという気にはなりませんでした。聞くところによるとATSによって先行車に近づくと自動停止するのだとか、子供が運転するには安全かも知れないけれど市電の続行運転のギリギリ停車を見てきた私の目にはなんとも面白くありません。

 以前十勝の陸別鉄道を訪ねた時にディーゼルカーの体験運転が出来ることを知って心躍りましたが、事前予約制であったために「是非再訪して運転するぞ!」と誓いました。ところが鹿部に来てからその思いは徐々に萎んでしまいました。近年各地の鉄道でも構内限定の体験運転イベントが開催されていますが、日常的にデ1の運転をしている身としてはお金を出してまで徐行運転を体験してみたいとは思わなくなってしまっています。そんなわけで、かつて運転妄想鉄だった私はシミュレーターも実車体験運転も全くと言っていいほどに興味を失ってしまいました。
夢がなくなっても、それ以上の現実を手に入れた私は日々幸せを満喫しています。

2024/01/21

待避線(余談雑談) 15インチゲージに思うこと

 15インチゲージ庭園鉄道を作って本当によかったなぁ」とあらためてしみじみ思うことがあります。自分で設計製作した電車を自分で運転して自分で敷いた線路の上を走らせる、こんな夢みたいなことを実現できた人がこの世の中に何人いるでしょうか。もし鉄道会社に運よく採用されて希望通り運転手になっていたとしても、いつもお気に入りの電車を運転できるわけではありません。車両製造会社の設計部門に配属されたからといって勝手な好みの電車を作れるはずもありません。

憧れの電車運転台
 私の場合、模型を作ることでその欲求をある程度疑似的に満たせたようでした。運転に関しては、近年のトレインシミュレータは驚くような進化を見せています。しかし今考えると、いずれも電車に乗り込んでコントローラーとブレーキハンドルを操作した時の実感には遠く及びません。音響や振動、何よりも直の視覚と加速度を感じながらの運転は、他のどんな方法でもそれに代えることができないのです。強いて弱点を言えば1/3スケールでは実物の重厚感に及ばないことでしょうか。もし実物の電車を手に入れて庭で自由に運転することができたら、それはこの上なく楽しいに違いありません。廃止された鉄道の車両を譲り受け、広大な土地に線路を敷き、それらを整備して運転できるように頑張っている人達がいるようです。羨ましいですね。
鹿部電鉄の四季

全部一人でやります
 ただ15インチゲージが実物サイズの鉄道より趣味の対象として優れている点を挙げるなら、車両も線路も全部自分で作れることです。さらにそれが一人で楽しめる限界の大きさであるということです。私の嗜好は、特に鉄道に関して言えば偏狭で拘りが強く、他者と相容れないことが多いため、一人の世界で完結できることは大きな意味を持っています。最初に書いた通り自分だけの意のままの鉄道のオーナーになれる点で、手頃でありながら最高の満足を得られる鉄道趣味だと思います。撮り鉄、乗り鉄、作り鉄と色々ある中でそれらを独り占めする自家鉄と名付けさせてもらいましょうか。

眺めて楽しむこともできます
 自家用鉄道のオーナーになった時、誰しもその鉄道をどう生かしていくかという岐路に立ちます。それまで憧れてきた気持ちと共に車両や線路を大切に維持し続けるか、あるいは近所の子供を招いて社会貢献の手段として利用するかなどの選択肢が思いとして過ぎります。せっかく世にも珍しいミニ鉄道が完成したのだから少しは注目してほしいと願うのは自然な成り行きです。しかし、テレビや新聞で紹介されると大勢の見学者が訪ねてきて困惑する可能性があります。大切な車両が傷ついたり道床の砂利が崩されたり、花壇の植物が荒らされたりすることを考えると黙っていたいようにも思えます。私の場合は、15インチゲージの同好者が興味を持って訪ねられることは大歓迎ですが、単に珍しがって子供連れが乗車目的で来られるといささか戸惑ってしまいます。このことについては早い段階で何を目的に鉄道建設するのか自問して決めておく必要があると思います。最初から一般開放するつもりなら、頑丈な作りにするとか安全を確保する機構を多重装備するなど、それなりの対策を採っておかなければなりません(法律で定められた技術基準があります)




ウチの庭には踏切があります

 目的と併せて目標を定めておくことも大切かと思います。「特定の鉄道や好きな車両の再現」とか、「ガレージと勝手口間の物資運搬用軌道建設」とか、「VVVF駆動装置の試作研究」、「とにかく線路とトロッコ」など、どんな鉄道を作ろうとするのか方向性を決めておくことは重要です。そして「最終形態として自宅を一周する線路を敷設するがとりあえず5m敷設して足掛かりにする」とか、「多種多様な電車を量産するためにまず1両試作してみる」というような最終目標と当面の課題や段階ごとの計画を定めることも大切で、作業にメリハリをつけるマイルストーンになると思います。

 なんだか15インチゲージ起業コンサルタントのアドバイスみたいになってきましたが、一人でも多くの鉄っちゃんが興味を持って「自分にもできそうだ」と一歩を踏み出してもらうことを期待しているわけです。以前に「15インチゲージのすすめ」で投稿した通り(2021/9/282022/2/132022/12/23)、目の前に立ちはだかる用地、費用、技術の壁は実際には恐れるほど高いものではなく、だれでも工夫次第で必ず乗り越えられます。もちろん悩んだり苦労したりということもありますが、大好きな鉄道を我が物にするためだと思えばそれもやがて楽しみに変わっていくはずです。自分で作った列車に乗りこんで好きなように運転できる鉄道を持つこと、こんなに素晴らしくも誇らしい趣味があるでしょうか。

2024/01/09

キハの構体設計

  暖房の効く工房がないので、冬の間は車両の製作作業が出来ません。そこで外の作業ができない期間は設計に没頭することにしています。その題材はたくさんあって、しっかり図面を描いておかないと材料購入や加工の段階で計算や加工のやり直しに迫られることがあります。キハ関連でざっと考えただけでも、台車の付属部品やブレーキ、駆動部、センターピン、車体構体、側窓と扉、屋根等々。新設車庫とその分岐のほかデ1とトについても自動連結器化はずいぶん前から懸案になったままです。全部のケリをつけようとするとまた何の進展もなくなってしまうので優先順位を考えて着手しなければなりません。キハは最終的にはガソリンエンジンで駆動したいと思っていますが、とりあえず来年中に外観が鑑賞に堪えられる状態になるようにしたいので車体の製作を急ぐことにします。

 キハ40000の実物が半鋼製だったことから、当初実物に倣って木製の側板の表面にブリキ板を貼り付けることを考えていました。これは工作が面倒なうえにきれいな仕上りにする自信が持てなかったことから断念しました。そのかわり鋼製の骨組みに木製の側板を貼り付けることで半鋼製車体とします。工作用ヒノキ角材を使って側板の試作をしたところ、想像以上に実感的な側板を製作できたことに起因しています(2023419日「キハの窓試作」参照)

 その鋼製構体は台車用の素材と一緒に購入した30mmの角型鋼管で製作します。定尺は6000mmですが、運搬の都合上3000mmに切断してあります。車両全長が約3.4mあるのでデ1の時のように四隅に柱を立てるには少し寸足らずです。はしご状に組立てた床構体と天井構体を4本の柱でつなぐために、扉のすぐ外側(車端より窓一個分内側)に柱を隠すように配置します。その前後に妻板ユニット、両側面に側板、さらに屋根を被せて車体を構成します。16番のペーパー模型では側板の上下に補強用角材を貼り、妻板と屋根板を組み合わせて箱型にしますが、この15インチゲージ車両は型鋼で作った骨組に板を貼っていく実物の車両製作に近い工法です。もっとも近年は実物も模型と同じ方法が主流になっていると聞いたことがあります。

車体組立構想

 というわけでまず骨組みの詳細設計に取りかかります。こういう構造物は溶接で結合するのが頑丈であり常道なのですが、鹿部電鉄工場には溶接機がありません。t3程度の鋼材溶接ならDIY用の小型機が販売されており、しかも中古品なら手軽な価格で入手できるようです。私は学生時代の実習を含めて何回か簡単な溶接をした経験があるものの、いずれも酷い仕上がりでなかなか自信が持てません。練習を重ねると上手になれるかも知れませんが、手元に溶接機があっても他に使い道を思いつかないので投資する気になれません。そこで鋼材の結合はガセット(補強材)を用いたボルト締結式として設計を進めます。

角型鋼管をボルト締結する構体組立図

2024/01/01

謹賀新年

 時の過ぎる速さは10年歳取るごとに倍になるように感じます。10歳の頃、「大人(20歳)になるのに今まで生きてきたのと同じだけかかるのか」とうんざりしましたが、実際にはそこまで長い年月ではありませんでした。仕事がいやで、「早く定年退職したいけど会社勤めは永遠に続くのではないか」と思い嘆きましたが、振り返ってみるとすんなり自由の身になっていました。64歳で鹿部に移住し趣味三昧の極楽生活が始まって満10年になりますが、これは本当にアッと言う間でした。

 歳取るとトキめきがないから時間が速く過ぎる、と言う説があります。私はこの10年、それまでに経験したことのないような感動を何度も味わったにもかかわらず、やっぱり時が経つのは速かったと思います。苦痛は長く続き、快楽は一瞬で終わるのかもしれません。残り僅かな人生を、少しでも長くじっくり享受したいと思います。



2023/12/21

防雪カバー

吹き込んだ雪が付着しています
 今シーズンすでに何回か雪が降りましたが、デ1にカバーをかけていませんでした。以前に作ったカバーは、粘着テープで貼り合わせたところが剥がれたり破れたりしているので作り直すことにしていたからです。カバーを作るにはリビングのテーブルをどけてビニールシートを広げ、透明粘着テープで貼り合わせなければなりませんが、立ち座りが大儀で身体が硬くなった高齢者にはこれが難行なのです。冬に向けてビニールは買ってありましたが、なかなか着手する気にならず、かと言って放っておいたら車体が傷むのでやっと重い腰を上げたというわけです。

 前回は立体的に車体を覆うように作りましたが、体力を慮って単純な形態にしました。称して「肉屋の店先で揚げたてコロッケを包む紙袋形」です。長方形のシートの三方を粘着テープで貼り付け、残った一方を開いて電車に被せるのです。ポールが前後に出っ張っているのでむしろ理に適った形状です。1.2m幅のシートなので裾の方はチョッとミニスカートみたいになっています。

チョッと丈が短い

 12月も半ばになると冬本番で、連日最低気温が-10近くまで下がります。全国ニュースで「大寒波襲来、北海道は大雪」などと流すものですから、知り合いから「大丈夫?」と気遣いが寄せられます。鹿部は太平洋側に位置するので西高東低の気圧配置ではあまり雪は積りません。爆弾低気圧が通過したり、弱い低気圧でも停滞したりすると太平洋からの吹き込みで一気に数十センチ積ることがあるので厄介です。まぁひと冬に何度もありませんが。