2023/06/13

待避線(余談雑談) キハ40000のこと

 鹿部電鉄の次期増備車両がキハ40000となったいきさつは20211229日の「妄想トレイン前編」から始まる何回かの投稿に記しています。はやい話が、私の大好きな日車型軽量気動車の典型であり、同じ線路を走る大沼電鉄デ1と世代が共通して違和感がない、という理由に因っています。1955(昭和30)頃日本の新製鉄道車両は半鋼製から全金属製に変わっていきました。小学生の私は新型車を見るともちろんワクワクしましたが、身近な大方の電車や客車、気動車には窓の上下にウィンドウシル・ヘッダーが付いているのが当たり前で、そんな中でもレカー*と呼ばれる加古川線のキハ41600(後のキハ06ですが、当時は型式なんか知りませんでした)はとてもスマートな存在として映っていました。

 ある日模型店のショーウィンドウの奥の方にOゲージの車体だけが転がっているのを見た記憶があってずっと気になっていたのですが、今思うとそれは日車型のガソリンカーで、当時一般的だったカツミのEB電機やブリキ製貨車とは一線を画すとてもリアルな模型でした。模型店の店主か客の誰かが自作したものの未完成のまま置き場に困っていたのかもしれません。その模型はリアルでありながら国鉄や阪急の電車に比べると車体が短く、表面の凹凸が小さくてとても軽快な印象を受けました。できることなら実物がどんな電車(だと思っていました)なのか見てみたいと強く願いながら、実物誌など読んだことのなかった少年は幻に出会うような憧れを抱いたことを覚えています。

ディーゼル化された日車型軽量ガソリンカー 左:別府鉄道キハ3 右:加悦鉄道キハ101
                       いずれも鉄研撮影会アルバムより 1970年頃撮影

一畑電鉄立久恵線キハ二1 自身製作
 やがて鉄道本や模型雑誌に目を通すようになって加古川線以外にもそんなディーゼルカーがあることを知り、中でも見るからにスマートな日車製気動車に心を奪われるようになっていきました。地方私鉄によくある10~12m級のトランジスターグラマー(当時の表現)に誘惑されてわざわざ遠方まで会いに行くようになりました。車庫では美魔女の香水の如き軽油の匂いに酔いしれてこの世の極楽を味わってしまいました。手っ取り早くそれを我が物にする手段は模型です。一般的な電車の寸法を元に目的の気動車の窓割りを再現しただけではあの軽量感は出せません。市販のキットや完成品でゴツゴツした気動車の模型を見るとガッカリすることがありますよね。素材(ボール紙、真鍮板)の厚さ、窓柱やシル・ヘッダーの寸法、窓枠の幅などを0.1mm単位で割り出す努力をして初めて、軽量気動車の薄っぺらでひ弱そうな車体を模型で表現できるのです。

 電気鉄道に気動車はおかしいと言わないでください。いやおかしいと言われても私の大好きなキハ40000は鹿部電鉄に入線させます。小田急、南海、富士急、定山渓などの電鉄線に国鉄乗り入れを目的とした気動車が存在したことは鉄っちゃんなら百も承知のはずでしょう。公式には、大沼電鉄は戦後乗客をバスに奪われて昭和27年に廃止された、となっていますが、その歴史を詳しく調べていると、廃止の原因は他にあることがわかりました。経営者の一部が資産を横領したり、東京の詐欺師に騙されたりして多大の損失を被っていたとのこと、鉄道事業の行き詰まりが原因ではなかったらしいのです。もしそんな不運に遭遇していなかったら大沼電鉄はその後も営業を続けていたことになります。大沼電鉄をモチーフとした鹿部電鉄は、廃止されなかったその後を現代に伝えることにします。

国鉄キハ40000形式図
 ここからは妄想です。大沼電鉄は戦後の好景気に支えられて乗客、貨物の輸送量が増え、国鉄線へ乗り入れて大沼や函館まで乗り換えなしで行ける旅客列車の直通運転が計画されました。国鉄で余剰となっていたキハ40000を譲り受け、五稜郭工場で機関をディーゼル化、弱点だった冷却系を強化するとともに寒冷地対策を行い、観光列車に相応しく車内の改装をしたのでした。塗色は当時の気動車標準色、腰板が青3号、窓から上が黄褐色2(薄茶色)で、デ1と区別して乗り入れ車であることをアピールしました。函館本線砂原支線との接続駅である銚子口の貨物受け渡し線を使ってスイッチバックで入線します。戦前型の機械式気動車とは言え、2軸単車と比べると乗心地は格段に良く、観光客のみならず沿線住民の評判も上々で、後年新型電車登場のきっかけになったことは言うまでもありません。

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