2025/03/27

待避線(余談雑談) 続パソコン更新

  パソコンを購入してちょうど2週間、自分一人で立ち上げ作業を完遂できるかというと絶対的な自信があったわけではありません。「初めてでもなければネット情報を見ながらなんとかなるンじゃない。」と言ってくれる人はいましたが、実は初めての体験でした。売り場の店員は1年間面倒を見てくれる安心プランを薦め、本体価格と同じくらいの費用だと言います。店から電話でITに詳しいご近所さんに「今からパソコン買うんだけど、行き詰ったら助けてくれる?」と尋ねたら「どうせ暇だし、何でも聞いて。」と言ってくれたので思い切って決断したのでした。

 メーカーの不手際でプロダクトキー(アプリ無償ダウンロード暗証番号)がわからず1日を棒に振ったのと、旧パソコンのデータ読み出しに日数を要した以外は順調でした。まぁ他にもすることがあるのでとんとん拍子というわけにはいきませんが、それなりにパソコンとして機能するところまで一人の力で漕ぎつけることができました。爺さんやるじゃない。と、突然「ストレージが一杯になったので文書を保存できません。」とメッセージが出てそれ以上先に進めなくなってしまいました。

 ここからはMicrosoft社に対する愚痴です。読み続けても面白くありませんのでお断りしておきます。

 Windows11からOneDriveというアプリが搭載されていてデータをパソコンに保存すると、自動的にクラウド領域にも保存されるという仕組みになっています。最初は無料ですが一定容量を超えると課金を促され、自分のパソコンへの保存機能も停止してしまいます。Windows10にもOneDriveは搭載されていましたが、デフォルトはオフでした。そのことをあらかじめ知らされていたら後に続く泥沼に苦しむこともなかった、と怒り心頭に発しています。諸悪の根源と思われたアプリをアンインストールしたら、まともに働いていたメールも固まってもうパソコンではなくただの箱になってしまったのです。Microsoftはネットで、この場合課金して容量を増やすことが唯一の解決方法であるかのような解説を展開していますが、本来はその前にアプリを使用するかどうかの選択肢をユーザーに示すべきであると思います。腹立たしい悪戦苦闘の日々を過ごしながら件のご近所さんに助けを求めたところ、手取り足取り教えてくれて時間はかかりましたが無事復旧に成功することができました。

 メーカーの恣意的な誘導が罪深いことは言うまでもありませんが、見栄を張って全部自分で解決しようとせず、できないことは経験者の力を借りることも穏やかに生きていく術であることを悟りました。

2025/03/20

待避線(余談雑談) パソコン更新

  いよいよパソコンの動作が不安定になって、いつダウンしてしまうかわからない不安に駆られ、急遽函館の家電量販店を回りました。最新高機能品は使い切れないので低価格最優先で選んでいると、ちょうど1年前の型落ちが6万円台(ほぼ7万円)で1台だけ残っているとのこと、近辺に並んでいる新製品の最安値のほぼ半額でした。何か問題があるかと尋ねたら、「動画編集するにはメモリーが小さい」とか「CPUが一つ前のバージョン」とか。15年前のパソコンに比べたら誤差の範囲なので迷わず決定です。

 パッケージを開けてびっくりしたのは、小さな段ボールには製品のほかにセーフティインストラクションがペラ1枚入っているだけ、取説も保証書もありません。電源を入れると立ち上げ手順が画面に出てきて作業を進めるわけですが、WordやExcelをダウンロードするためのプロダクトキー(パスワード)がパッケージに貼り付けてある、と表示されました。探してもそれらしい文字は見つけられないまま丸一日近く無駄な時間が過ぎてから、ネット情報でそれがメーカーのミスであることがわかり、そのサイトからOfficeを無事ダウンロードできました。引き続き旧パソコンから写真やドキュメント、メールを移動する作業を行っていますが、吸い上げ動作に時間がかかるのでいつになったら以前の使い方ができるのかとため息をついています。

 そのあかつきには撮りためてあるこま切れ動画を編集してYouTubeに投稿しようと思っています。ドキュメントコピーの待ち時間を利用して動画編集アプリを試してみました。以前はスマホで撮影した1,2分の動画を読み込むのに30分近くかかっていたのが一瞬で完了、切り継ぎはいとも簡単にできました。ただ、サウンドやキャプション、グラフィック効果などいろんなアレンジができるようになっているようで、どこまで使いこなせるか頭を悩ませそうです。

2025/03/12

キハ屋根の製作準備

3月になると少し春めいてバラストが
見えてきますが、線路脇はまだ雪の壁

  屋外作業が出来ない冬季間は翌春からの作業準備、つまり設計や企画をすることにしていましたが、この冬も例年通り大した成果を残すことはできませんでした。連結器の設計や一部区間へのダミー架線の敷設計画など大風呂敷を広げたものの、待避線(余談雑談)の原稿に書いただけで終わりました。一方、キハの屋根の構造設計と扉部の再設計は超スローペースながら自分の尻を叩いて図面作成に漕ぎつけました。

 屋根の基本的な構造は、カヌーの製作技法を応用して薄杉板を貼り付けた曲面で形成することにしました。ただし、屋根中央部は大きなRの2次元曲面であるためにベニヤ板で省力化を図ります。想定通りに上手くいくかはやってみないとわかりませんが、デ1でダブルルーフの製作実績があるので、妙に自信に満ちています。ただ、わずかな記録しか残っていない大沼電鉄と違って、同じ時代のキハ40000 (41000)は比較にならない程色々な角度からの写真を見ることができるので、実物に似ていない下手な仕上がりは許されません。

岩手開発鉄道のキハ40000 張り下げ屋根のカーブがたまりません p. Classic Freightcar Archiveより C.C.ライセンス

 手元にあるRMライブラリー1「キハ41000とその一族」に詳細な車体断面図が掲載されており、そこに屋根のRが記入されています。1/3にスケールダウンし、屋根を支えるリブおよびそのリブと車体構体を結合固定する屋根枠を設計しました。デ1の屋根Rはワイヤーと鉛筆で大半径コンパスを作ってケガキ線を描き入れましたが、鉛筆の持ち方やワイヤーの引張り加減で随分不正確なものになっていました。そこでコンパスを使わなくても正確なケガキが出来るよう、設計図には円弧上に50mmおきに点を設定し、ピタゴラスの計算でXY座標を記入しました。スケールを使って正確にこれらの点を再現し、それぞれを結べば疑似円弧になるという算段です。

 リブと屋根枠の材料は側板、妻板と同じ桧板です。肩の曲面部に使用するのは杉板ですが、デ1の製作でお世話になったカヌー工房の秋田先生はその後高齢で工房の維持ができなくなり、器具や機械類を全部処分されたため薄杉板の製作を依頼することができなくなってしまいました。5mm厚、50mm幅の杉板の両側縁面は専用の機械で凹凸R加工がされていたので、並べて貼り付けると互いに食い込んで表面をツライチにすることができました。凸Rはカンナやサンドペーパーで削ることができますが、凹Rの加工を自分でやるとなるとその方法を考えなくてはなりません。これは製作に着手するまでの宿題です。

デ1の屋根リブと薄杉板貼り付け状況

 屋根部の設計が終わって、屋外作業が可能な季節なら即加工に取りかかるところですが、外はまだ銀世界ですのでもう少し準備作業を進めます。リブの外形はアーチ状で、ジグソーで切り出すためのケガキ線を描き入れなければなりません。部品図を見ながら7枚の板にそれぞれケガキをするのは面倒だし、不均一になりかねませんので、正確な型紙を作ってなぞるほうがよほど合理的でしょう。ということで暖房の効いたリビングで半日がかりの型紙製作に打ち込みました。虫メガネみたいな超老眼鏡を掛け、震える指でボール紙に0.1mm単位の目印を写し取り、ステンレススケールとカッターナイフでケガキ線のガイドを切り抜きました。とてもじゃないが、こんな作業は7回もできません。

リブ製作用型紙

2025/03/03

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その4

静岡鉄道駿遠線廃止の前年撮影したけど乗車せず
 私が地方私鉄に電車や気動車を追っていた頃(1970~1975年)、旧型気動車はまだ全国各地で働いていました。そのうちの幾つかは軽便鉄道(ナローゲージ)で、懐かしく思い出される光景ではありますが、実際問題として老朽化した車両の乗心地や性能はすでに時代遅れであったことは否めません。そうこうしているうちに廃車や廃線が進み、カメラに収める前に、また乗車が叶わぬ間になくなってしまった車両や鉄道がいくつもあります。



岡山臨港鉄道キハ5001運転中の光景  富田さん撮影
 当時旧型気動車に乗った時は必ず運転台の後からあるいは横から運転機器の配置とその操作方法を観察していました。もちろん電車でも同じ場所から観察するのですが、特に機械式気動車の場合はスロットルレバーやブレーキ弁やペダルの配置が車両ごとに違っているので興味深く眺めると同時にメモ帳に記録していました。それは私が根っからのメカ好きで運転好きだったからです。そのメモ帳は半世紀以上経った今行方不明ですが、今朝何食べたか思い出せないのに昔のことはよく覚えている老人の得意技で、記憶の糸を辿りたいと思います。

 過去の鉄道のことを知ったかぶりして色々とこのブログに書いていますが、実際に見た光景以外に出所の多くは雑誌や書籍、ネットの記述にある公知の事実またはそれらから類推した事柄です。これらは公文書や古文書、内部文書や古老からの聞き取りといった自分自身で調べて得た知見とは言えません。ただし、以下に記す機械式気動車の運転操作機器配置に関する調査は珍しく私が独自の視点で行った記録の一端です。写真はほとんど残っておらずメモもなくして怪しい記憶に頼っているので、どこの鉄道の何型であったかをすべてのタイプについて明言できないのが残念でなりません。記録としては不完全で、間違っていることがあるかもしれませんので、お気付きの方がおられましたら右の「お問い合わせ」または下の「コメント」でお知らせください。

 機械式気動車の運転機器配置については2022年10月4日投稿の「機械式気動車の話」の中で触れています。一部重複しますが、代表的な配置パターンの紹介とそれに纏わる逸話を書きます。その前にお断りしておくことがあります。自動車のアクセルに相当するスロットルはガソリンエンジンの吸入混合気量を加減する弁のことで、ディーゼルエンジンにスロットルは本来ありません。ガソリンエンジンをディーゼルに換装した際に運転操作機器をそのまま流用したために、回転数調整(調速)レバーを従前通り「スロットルレバー」と呼んだのではないかと想像します。あるいは「加速桿」と呼ぶ人がいたかもしれません。当時の取扱説明書にどう書いてあったのか、その種の資料がないか調べましたが見つかりませんでした。かろうじて国鉄の運転室明細図面には「燃料テコ」という文字が見えます。ここでは便宜的に「スロットルレバー」(足踏みの場合は「スロットルペダル」)とします。辞典で「スロットル」は「本来はガソリンエンジンの絞り弁を調整するレバーであるが、出力制御レバー全般を指す」とされ、「航空機、船舶、バイク、刈払機などに使用される」とあります。また床下の変速機を切り替える遠隔操作レバーは「シフトレバー」とします。

私鉄標準型運転機器配置 自身作画
 まず、私鉄の機械式気動車でポピュラーであった機器配置を示します。運転席の左前方に、手前に引くとエンジンの回転数が上昇するスロットルレバーがあり、左手で操作します。右前方にブレーキ弁があり、運転席の右横に抜き差し可能になっているシフトレバーを、右前方床上にあるクラッチペダルを踏んで操作します。ブレーキ弁は多くの場合、自車のみの制御を行う直通式で、昭和の路面電車で見られるような小型で簡便なタイプになっています。とりあえずこの運転機器配置を私鉄標準型と呼ぶことにします。と言うのは、日本車両や川崎車両が江若鉄道や中国鉄道(現津山線・吉備線)、芸備鉄道(現芸備線)、播丹鉄道(現加古川線)向けに納入した私鉄型気動車の完成型がこれに相当するからです。製造時期に関わらず同じ配置のものはこれに含めます。


国鉄型運転機器配置 自身作画
 次は国鉄キハ04やキハ07あるいはその譲渡車の場合です。機関車と同じく左手で操作する自動ブレーキ弁があり、シフトレバーは右手で扱います。クラッチペダルは左足、スロットルペダルは右足で踏みます。機関車の場合は入れ替え作業時に窓から身を乗り出してブレーキ操作するので電車と違って左側にあるのだという話を聞いたことがありました。気動車のブレーキ弁がなぜ左にあるのかずっと疑問に思っていましたが、ある日ふとその答えに気付きました。地方線区に気動車が導入された時、その運転を任されたのは電車運転手ではなく蒸気機関車の機関士ですから、同じ左手で扱うのが自然な成り行きだったのでしょう。(注) 国鉄型のブレーキは連結運転に備えて直通式と自動ブレーキ式が切り替えられるようになっているとの記述がWikipediaにあるように、弁の外形は円筒状で直通式の弁より少し大型になっています。この配置は1954年から1956年(昭和29年から31年)に製造されたレールバスキハ01~03にも受け継がれています。
 注記 この原稿を公開した後で蒸気機関車のブレーキは右手で操作する位置にあることに気付きました。電気機関車やディーゼル機関車は左手操作です。と言うことで「蒸気機関車の操作に合わせたのだろう」という推論は誤りで、この疑問は振り出しに戻りました。

 _小樽市総合博物館キハ031         南部縦貫鉄道キハ101___
 同じレールバスでも南部縦貫鉄道のキハ101,102の場合は上記私鉄型配置に準じているもののクラッチペダルを左足で踏み込むようになっています。数少ない現在に残る機械式気動車なので運転中の動画が投稿されていますが、注目すべきはスロットルレバーを引く前に窓外の景色が動き出すこと、つまりクラッチペダル操作だけで起動し、完全に動力が繋がってからスロットルで加速していることがわかります。よく「マニュアルミッションの自動車と同じ」と解説されることが多いようですが、こういう操作を切れ目なく進める高度なテクニックが必要になります。

 ブログ「地方私鉄1960年代の回想」で遠州鉄道奥山線のキハ1802,1803の写真を見つけたので、管理人のKatsuさんにお願いして引用許諾をいただきました。さすがに元エンジニアだけあって床のペダル迄画角に入れた運転台の完璧な写真です。シフトレバーが運転席の左側にあります。この場合、左手でスロットルレバーが扱えないために、おそらく右手でスロットルとブレーキの両方を操作するようになっていたのでしょう。加速と減速を同時にすることはないので、不可能ではありませんがやりにくい操作だと思います。ところが右足元を見ると国鉄型の如くスロットルペダルがあって、運転席正面のスロットルレバーは固定されているように見えるところから、使い勝手を考慮して改造されたのではないかと想像します。尾小屋鉄道に譲渡されてその後動態保存運転されている動画で確認すると、運転手は両手でシフトレバーとブレーキハンドルを握ったまま加速しているので右足でスロットルペダルを踏んでいるのだと思われます。

遠州鉄道奥山線 左:キハ1802 右:キハ1803 スロットルレバーは使われていない模様
_________________________   地方私鉄1960年代の回想より許可を得て転載

国鉄型に類似した頚城鉄道ホジ3 Wikipediaより
 頚城鉄道のホジ3は見るからに謎に満ちた車両ですが、シフトレバーが運転席の左側にあること以外、機器配置は国鉄型に準じています。つまり左手でブレーキとシフト操作の両方を行わなければなりません。加速中に急ブレーキをかけるような事態が発生した時に多少の影響はあるかもしれない、程度に考えたのでしょう。それよりこの車両が特殊なのは、シフトレバーが抜き差し構造になっていなくて、後位の無人運転席でシフトレバーが勝手に動くという不思議な光景が見られるとのことです。また運転席から前進/後進の切替え操作が出来るようになっておらず、いちいち下車して駆動軸の逆転器を手動で切り替え操作しなければなりません。動態復元されて動画が公開されているので知る人ぞ知る事実になっているようです。

 気動車を導入した各私鉄独自の注文仕様なのかメーカーの都合なのかわかりませんが、後に鉄道会社間で車両譲渡が繰り返されると同じ鉄道でありながら色々なタイプの運転台が混在することになり、運転や保守を担当する者にとってはややこしかったと思います。今やワンハンドルコントローラーしか見たことがない鉄っちゃんが普通にいる時代、スロットルレバーを手前に引けば加速するのは理解できるとして、まさか奥に倒せばブレーキがかかると思ってはいないでしょうね。

2025/02/20

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その3

  最初の投稿「事の始まり」(2020/10/08)で書いた通り、1969年(昭和44年)の春晴れて大学生になった私には半年近く自宅待機の日々が続いていました。昨今の感染症流行による外出自粛と違い、何の憚りもなく遊びまわっていいので気楽な身分でした。その年の11月1日限りで江若鉄道が廃止になるというので、カメラを持って浜大津を目指しました。当時から気動車好きではありましたが、旧型気動車となると加古川線か別府鉄道くらいしか接点がなかったので江若鉄道にもそれほど強い興味があったわけではありません。むしろ京津線のポール集電が翌年廃止されることの方が気になって、浜大津では電車の写真ばかり撮っていました。何しろ運転頻度が全然ちがうし江若の浜大津構内には1両の気動車も見当たりませんでしたから。ずいぶん待ってやっと来たのは元熊延鉄道のキハ51(または52だったか覚えていません)で、塗色が国鉄の交直両用電車(60Hz)と同じであるのに驚きました。その頃は鉄道雑誌のグラビアもほとんどが白黒で、敢えて色に興味がなければ勝手に想像していたからです。浜大津から雄琴温泉まで乗車し、交換した対向列車に乗って帰ってきたのですが、それが同じキハ50の片割れだったのでがっかりでした。今思えば、せめて三井寺下車庫で下車して他の車両の撮影をしておけばよかったのにと悔やまれます。三井寺下-浜大津間はたった600mしか離れていなかったのです。

   京津線のポール電車80型        熊延鉄道時代の江若キハ50型熊本県H.P.より

 そんな出会いの後すぐに江若鉄道は廃止されてしまい、結局まともな写真は残っていません。しかし地方私鉄の撮影行脚を始めてからは熱烈な旧型気動車マニアになり、現役時代を詳しく知らないまま16番模型を作ったり(こういうのはよくあります)、他の私鉄に散らばった仲間の撮影に出かけたりするようになります。翌年の春、鉄研を立ち上げたメンバーと連れ立って撮影旅行に出かけた折に岡山臨港鉄道で早速出会ったのが元江若のキハ12、キニ13で、キハ5001、5002として働いていました。5001の方は江若時代に車体が中途半端に近代化されて直視に耐えないような形相を呈していました。それは原形が「びわこ型」と呼ばれる独特の流線形車体だったのを無理やり鋼体化してアルミサッシやHゴム窓にしていたからです。びわこ型は山陽電鉄や神戸電鉄で見慣れていて、その変貌ぶりと正面/側面のアンバランスは雑誌などで予備知識があったものの、目の当たりにして驚いたり呆れたりしたものです。

左:岡山臨港鉄道にて元江若鉄道DD1352と元中国鉄道のキハ3001 鉄研撮影旅行にて自身撮影     
                     右:別の日のキハ5001 富田さん撮影

江若廃止前のキニ4と同型の元キニ6から__
貫通総括制御化されたキハ5123 
小林さん撮影
 江若鉄道にはこれら流線形のキニ9-13と側面がほぼ同じ窓配置で正面が3枚窓(竣工時は4枚窓だったらしい)のおとなしいスタイルのキニ4-6がありましたが、私は後者のほうが断然お気に入りです。そしてこれこそ国鉄キハ41000のお手本になったと言うか、車体長を縮めた以外そっくり設計流用されたとも言われています(チョッと言い過ぎかな)。もう一つ余談の余談ですが、戦後このガソリンカーにトレーラーバス用の大型エンジンを搭載してディーゼル化したとされています。トレーラーバスと言うのは進駐軍が放出したトラクターを改造して別に作った客室部と連接構造にしたもので、私は1955年(昭和30年:6歳)頃神姫バスが運行していたのに乗車した経験があります。とてつもなく大きいバスだなと思ったことを覚えていますし、エンジンも当時としては相応に強力なものだったということでしょう。最下に参考写真を添えています。

御坊臨港鉄道(現紀州鉄道)キハ16 富田さん撮影
 江若鉄道(日本車両)のDNAを受け継ぎ国鉄で誕生したキハ41000は、戦後キハ14-17として琵琶湖畔に帰ってきました。これらは無骨な木製雨樋を纏うことなく最後まで優美な姿を保っていました。キハ16だけは御坊臨港鉄道(紀州鉄道)に譲渡され、その後他の旧型気動車と一緒に元気に働いている様子を確認しています。一方キハ42000はキハ18-24として江若鉄道に籍を置き、片運化や貫通化、総括制御化などの改造を受けたものは廃止後も譲渡先で活躍を続けました。このうちキハ24は貫通化改造の際に上の写真のキハ5123と同じくユニークな離れ目2灯になっていたので、美熟女に心奪われた私はそれを模型にして毎日眺めていました。ところが加越能鉄道を経由して関東鉄道常総線に終の棲家を得たと思っていたところ、久しぶりに見た写真にはヘッドライトが中央に移され妻面のアルミサッシ窓が無粋なHゴム固定になったおばあさんの姿が写っていて呆然としました。”関東鉄道キハ551”で検索すればその姿を見ることができます、が私は見たくありません。

2025/02/07

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その2

  国鉄から私鉄に譲渡されたキハ41000は67両、キハ40000は10両 (RMライブラリーキハ41000とその一族による)とのこと。製造数がそれぞれ190両と30両であったので、同じような比率で約1/3が私鉄に渡ったことになるようです。なおキハ40000に関しては半数の15両が外地へ供出された他、戦災やキサハ化などにより国鉄ではほぼ使われていなかった模様です。一方私鉄にはコピー設計した新造車両があって、微妙に国鉄車と違っているのが興味を惹きます。

 1951年(昭和26年)宇都宮車両(→富士重工→SUBARU)で製造された常磐炭鉱キハ21はキハ40000に準じた寸法ですが、車体上部は張り上げ屋根になっていて国鉄車より幾分モダンなスタイルになっています。原型は低いプラットフォームに合わせて乗降口が2段になっており、外観は路面電車のようにステップ部が大きく垂れ下がっていたようです。その後岡山臨港鉄道に移籍した際にステップは一般的な寸法に変更されています。羽後交通には片側にバケット(荷物台)を備えたキハ41000ベースの3両の張り上げ屋根車がありました。最初に登場したキハ1は常磐炭鉱向けより1年早く竣工していて、当時の写真(白黒)では車体長とバケット以外そっくりです。後に続くキハ2とキハ3は川崎車両製で、こちらは湘南顔になっていて金太郎塗りでした。私は1970年(昭和45年)に横手を訪ねていますが、臙脂とライトブルーの塗装が美しかったことを覚えています。残念なことにキハ1は火災で短命に終わり、雑誌やネットにもほとんど取り上げられていません。宇都宮車両は片上鉄道にもキハ41000タイプの張り上げ屋根車キハ311、312を納入しています。こちらは正面が2枚窓ですが傾斜がないので湘南型にはなりきれていませんし、せっかく雨樋がないのにその後車体と屋根が塗り分けられてスマートさに欠けてしまいもったいない感じがします(個人の好みによります)。現代でこそ張り上げ屋根なんか珍しくもありませんが、全金属製車両が登場する以前は側面と屋根の構造が異なっていたため、張り上げ屋根にするには少し面倒な工事が必要だったようです。当時の屋根は木の板を並べて曲面にした上にキャンバスを張り、コールタールを塗って防水するのが一般的でした。一方で側面は1.6mm(電車・客車は2.3mm)の鋼板を骨組みにリベットで打ち付けてあるので、外板を屋根まで延長するには屋根の骨組みの寸法まで変更しなければならないのでした。今鹿部電鉄で製作中のキハ40000は側板と妻板を構体に取り付けた後、別に組み立てた屋根を被せる方法を採ろうとしていますが、何を隠そう昔ながらの製作法に倣っているわけです。宇都宮車両や川崎車両がどのような工法を採用したのかその詳細は知る由もありませんが、おそらくは側面から屋根部まで一体の構体(骨組み)に同じ鋼板を貼り付けて行ったのではないかと想像します。すでに溶接による車体組立てや全金属製車体の製造に踏み出していた時代背景があったからではないかと想像します。

 張り上げ屋根ではない大多数の旧様式の気動車の車体側板と屋根の境目がどうなっているかと言うと、これがまた興味深くいくつかに分類できます。

 キハ41000とキハ40000の製造当初は屋根のキャンバスを側板に被せて鋲で止めてありました。言ってみれば張り下げ屋根です。これでは雨が落ちてくるので扉の上だけ水切りを設けて乗降時に濡れにくくしてあります。私の嗜好を言わせてもらうなら、この樋なし屋根がもっともスマートに見えて大好きです。鹿部電鉄ではこのタイプにすべく屋根の設計をしています。

 一部の私鉄では車体全周に張り下げたキャンバスの継目を隠すかのように水切りを巻いた車両がありました。一見樋のように見えますが、溝状になっていないので雨を流す機能はありません。

 コンパクトな鋼製の雨樋を巻いた車両もあります。なぜかキハ42000には新製時もしくはその後早い時期から鋼製雨樋がついており、この形式については鉄道会社や時代に関係なく他の構造に改造した例をほとんど見たことがありません。ただし鹿児島交通や夕張鉄道の自社発注車は正面のみ張り上げで樋がありません。水島臨海鉄道のキハ310(元中国鉄道買収気動車)はキハ41000タイプですが、雨樋がスリムな鋼製であるだけで他の車両と比べてとてもスマートに見えました。もちろん一般の利用者はそんなことには全く気を留めません。

鋼製雨樋付き九州鉄道記念館のキハ07(42000)と正面張り上げの鹿児島交通キハ100 鉄研富田さん撮影

 キハ41000タイプで最も多いのが木製雨樋です。前の投稿で北丹鉄道の「何の変哲もない」キハ04の写真をご覧ください。金属物資が不足した戦時中に限って木材を使用したのならわからなくもありませんが、戦後にせっかくノーリベットで登場したキハ41600(後のキハ06)が不細工で太いハチマキを巻いて3ヶ月の間に50両も量産されたのは不思議でなりません。晩年、休車や廃車で保守が行き届かないまま放置された時に真っ先に朽ちるのは木部であり、車庫の外れで痛ましい姿を晒しながら最期を待っている老体をやるせない気持ちで見送ったのも一度や二度ではありません。

 旧型気動車の張り上げ屋根と雨樋の余談雑談でした。余程の好き者でないと面白くもなんともない内容です、はいわかっています。

2025/01/24

待避線(余談雑談) キハ40000参考写真その1

  過日加古川で撮影した(隅の方に写っていた)唯一のキハ06の写真を載せました。学生時代に地方私鉄を訪ねて撮影した旧型気動車の写真が何枚もあるのですが、大部分は実家のどこかで荷物の下敷きになっているかタンスの引き出しの奥で眠っているはずです。もともと整理が下手で写真は撮りっ放しでした。何回か探そうと試みていくらかは救出しましたが、これ以上掘り出して見つけることはできないでしょう。そうなると昔の写真は他人頼みになるわけで、鉄研のメンバーが撮影した貴重な旧型気動車の記録をこのブログに引用させてもらうべく連絡を取ってお願いをしていました。

 そんなやり取りをしている時に見つけたのが北丹鉄道のキハ10 2です。10と2の間に微妙な間隔があって、型式キハ10の2号機みたいな表記です。鉄研のアルバムに貼ってあった1970年(昭和45年)天橋立で合宿した時の写真で、その前後には加悦鉄道の片ボギー車やキュウロク牽引の客レなど珍しい写真が並んでいます。撮影者と思しきメンバーに訊ねたのですが、今もって誰が撮ったのか著作権者不明のままです。元国鉄のキハ04で、塗色は腰板と幕板が臙脂で窓まわりがクリーム、もう一両あったキハ10 1は幕板も窓まわりと同じクリームで雨樋が臙脂に塗装してありました。2両とも扉はプレスドアに交換されています。言ってみれば旧型気動車としては何の変哲もない車両ですが、こいつが走っていた線路がとてつもなくヘロヘロで、上下左右に酷く揺れるので自転車並みのスピードが限界でした。

キハ102 福知山西駅 1970年7月5日 撮影者不明
 曲線区間ではトロッコの線路みたいにレールの継目でカクッと曲がって行く感じで、いつ脱線するかとハラハラしながら乗車しました。レールを曲げずに敷いて継目で少しずつ曲がるように繋ぐとは何たる手抜き工事かと呆れたのですが、このことについてWikipediaにその理由が書いてありました(出典不明)。元々建設資金が乏しかったので河川敷に線路を敷設したが、度重なる増水の被害で道床の砂利が流失したため曲線部のレールが元の直線(と言ってもヘロヘロ)に戻ってしまった由。修復も儘ならぬほどの経営難であったそうです。庭園鉄道では曲線部のレールは敷設前に曲げておきますが、実物の鉄道では弾性変形の範囲でわずかに曲げながら枕木に打ち付けて行くので、道床の砂利がなくなってしまったらさもありなんと乗車以来55年目にして納得したのでした。こんなことがわかるのも自分でレールを敷設した経験があればこそで、手抜き工事ならぬ金欠による手抜き保線が原因であったわけです。

 件の写真は福知山西駅停車中に撮影されたもので、妻板の左端の車窓には鉄研の旗を持った若き私が写っています。終点の河守(こうもり)までスリル満点の約12kmを、運転手の両手足による操作を観察しながら片道1時間近くかけて往復し、起点の福知山の一つ手前の車庫所在駅まで戻ってきたところをメンバーの誰かが撮影したのでしょう。それが誰だったのか全く記憶がありません。

 キハ40000に限らず学生時代の旧型気動車撮影行脚の思い出をシリーズで綴っていきます。